スるべき神は、最も抽象的にカプト・モルトゥムとなった。
 デカルトはすべての物を疑った。天も、地も、精神も、物体も、世界において何物もない、自己というものまでもないのでないかと考えて見た。無論、斯く考える私はある。しかし偉大なる欺瞞《ぎまん》者があって常に私を欺いているのでもなかろうか。真の神という如きものもないのではないか。しかし斯くまで疑うにしても、欺かれる私はある。欺瞞者が如何《いか》に私を欺くとも、私が考えるかぎり、私がある、コーギトー・エルゴー・スムの命題に達したのである。而してそこからデカルト哲学が出立したのである。私は此にデカルト哲学の不徹底があるというのである。神が自己を欺くとも、欺かれる自己がある、私が私の存在を疑うというなら、疑うものが私である。疑うという事実そのものが、自己の存在を証明している。かかる直証の事実から把握せられる実在の原理は、主語的実在の形式ではなくして、矛盾的自己同一の形式でなければならない。スム・コギタンスの自己は、自己矛盾的存在として把握せられるのである。自己は、何処までも自己自身を否定する所にあるのである。しかもそれは単なる否定ではなくして絶対の否定即肯定でなければならない。それは主語的論理が自己自身を否定することによって考えられる実在でなければならない。
 デカルトは、自覚の立場から、すべてを否定した。しかし右の如き意味においての、真の否定的自覚の立場に至らなかった。直証の事実といえば、人は直《ただち》にそれを内的と考える。而してそれから出立することが、内から出立することと考える。而して我々が疑うことのできない真理から出立するということは、この外にないという。しかし私は此《ここ》でも主語的論理の独断が前提となっていると思う。疑うも疑うことのできない直証の事実というのは、自己と物との、内と外との矛盾的自己同一の事実ということである。自己があって、そういう事実があると考えるのは推論の結果であって、我々の自己はそういう事実から成立するのである。それは自己の内においての直証の事実という代りに、自己成立の事実と改むべきである。考えるということ、その事が既にそういう事実であるのである。疑うということすら、かかる矛盾的自己同一から起るのである。無論、私はいわゆる経験論者の如く知識は外からというのでもない。然《さ》らばといって、単に内か
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