もある、後で聞いた所に由ると数年前に二階から落ちて頭を打ち、一時は全くの狂人と為って了ったが、此の頃は幾分か軽くなり、偶に精神の爽やかな時が来ると云う事だ、併し此の様な事は何うでも好い、唯甚蔵の咽喉を握る様な秘密をさえ手に入るれば。
 斯くて暫く話の途切れた頃、頭の上の方で、何だか緩《にぶ》い足音とも云う様な響きが聞こえた、或いは天井の上を、ソッと何者かが歩いたのでは有るまいか、若し爾すれば、益々彼の潜戸の中へ這入る必要が出て来る、彼の中へ入れば自然此の室の上などへも来る事が出来ようも知れぬ。
 余は殆ど思案の暇もなしに、仰いで天井を眺め「オヤ今の音は何だろう」と問うたが、此の一言は忽ち婆の暗い脳髄を明るくする力があったと見え、婆は急に容《かたち》を更め「貴方はアノ音を知りませんか、夫では矢張り甚蔵の敵だ、敵だ、此の家の事を何にも知らぬのだ、知らずに聞いて居なさるのだ、ハイ此の家の内事を知らぬ者は皆敵だから決して内へ入れては了けぬと甚蔵が言いました、先ア敵の癖に、優しい言葉で油断をさせて」と恨めしげに言い募ろうとするから、余「ナニ悪事をせぬ人に、何で敵がある者か」婆「イイエ、貴方は甚蔵
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