見よ」とて差し出さるるは一片の紙切れで有る、文句は「至急御話し申し度き事有之候間、直ぐに銃器室まで御出被下度候、若し私を恐れて躊躇なされ候わば夫が何よりも、御身が古山お酉たる証拠に候、浦原浦子より」と有る。扨は叔父が昨夜拾ったのは此の書き附けだ、秀子が手に持ったままアノ室へ這入り、鉄砲を取る時に落した者と見える、此の書き附けが何も彼も説明して居るのだろう、余はグウの音も出ぬ、唯叔父に向って頭を垂れる許りだ、叔父「其の方は直ぐに倫敦へ行ってお浦を呼んで来い、一応当人を詰問した上で、松谷秀子に向い、己から充分に謝せねば成らぬ」是も有理至極の言い分で有る、余「ハイ直ぐに倫敦へ行きますが若しお浦が茲へ来ぬと言い張れば」叔父「其の時は己が行く」凛然と言い切った、逆らう余地もない。
余は直ぐに倫敦へ帰ったが、お浦は早や茲でも荷物を引き纒めて出奔した後だ、唯余に一通の走り書きを残して有る「貴方が命を捨ててまで折角の私の計略を邪魔するとは驚き入り候、貴方がアノ女を何れほど愛するか又私を何れほど愛せぬかは明らかに分り候、勿論私も御存じの通り初めより貴方を愛する心はなく、唯丸部家の相続が全く他人に渡るを惜しみ貴方と夫婦約束をなせしまでゆえ、今は約束を取り消して綺麗に他人となり互いに誰と婚礼するも自由自在の身に帰る可く候。愛無くして夫婦と為らば末は互いに妨げ合いて不愉快に終ること既に昨夜までの事にて思い知られ候、私は根西夫人に従い今日出発して大陸へ旅立ち、貴方が私に分れて如何に淋しきかを思い知る頃帰り来る可く候、私の留守中にあの仲働が叔父様を(併せて貴方を)鎔《とろ》かし丸部家を横領するは目に見えたる所なれど如何とも致し方無く候、今既に貴方も叔父様も心の鎔けたる者に御座候、彼女は確かに幽霊塔の底に在りと云う宝物まで奪い去る大望に候、彼の女の身に深い秘密の有ることは、左の手に異様な手袋を嵌め、何の場合にも夫を脱がぬ丈にても明白の次第に候、貴方なり叔父様なり彼の女と婚礼の約束を成さるには彼の手袋を取らせたる上にて成さる可く候、是だけ御誡《おんいまし》め申し置き、猶貴方が彼の女に陥られる事あらば※[#「※」は「研」のつくりの部分に同じ、読みは「そ」、42−下24」は全く陥めらるる貴方の過ちゆえ私は知り申さず候」
余は「何の小癪な」と嘲笑ったが、兎に角お浦から夫婦約束を解かれて自由自在の身と為ったのが嬉しい、此の後は最う何れほど秀子を恋慕い、縦しや夫婦約束を仕たとても差し支えは無い、斯う思って重い荷物を解き捨てた様な気がしたが併し自分の仕合せを喜んでのみ居る場合で無い、兎に角お浦に逢わねばと直ぐに兼ねて知る根西夫人と云う人の許を尋ねたが間の悪い時は悪い者で、一歩違いに行違い、追い掛けて行く先々で毎もお浦の立った後へ行って、到頭一日無駄に暮した、勿論叔父には其の旨を電報した、爾して翌日も日の暮まで馳せ廻ったが逢う事は出来ず、三日目にはドバの港まで追い掛けたが是も一船先にお浦と根西夫人との一行が立った後で有った、落胆して倫敦の叔父の家まで帰って見ると、叔父からは「最う来るには及ばぬ、己は近日帰る」と云う電報が来て居る、来るには及ばぬとは何事ぞ。人に之ほどの苦労を掛けて、扨は余の便を待たずに怪美人へは充分に詫びをして其の心を解く事が出来たと見える、爾すれば最う倫敦へ帰る筈だのに近日帰るとは是も何事ぞ、扨は、扨は、怪美人松谷秀子と分るるに忍びずして便々と日を送る気か。事に由ると是はお浦の手紙に在る事が当るか知らんなど、余は気が揉めて成らぬけれど、来るに及ばぬと明らかに制して来たのを、押し掛けて行く事も出来ず、身を掻きむしる程の思いで控えて居ると二日、三日、四日を経って、叔父はニコニコ者で帰って来た、帰って来て直ぐに余を一室へ呼び、今迄の陰気な顔を、見違える程若返らせて「コレ道九郎、其の方に祝して貰わねば成らぬ事が有る、何しろ目出度いよ」余は悸《ぎょっ》とした、「ハイ、夫ほどお目出度い事ならお祝い申しますが」と返事の声も何となく咽に詰った、叔父「己は此の年に成って此の様に嬉しい事はない」余に取っては少しも嬉しくはない、叔父「本統に嬉しいよ、アノ『秘書官』の著者よなア」余「エヽエヽ松谷秀子ですか」叔父「爾よ、其の松谷秀子がよ、己の親切に絆《ほだ》されて、到頭約束をして呉れた」余は全く声が出ぬ、漸く縊《くび》られる様な思いで「何時御婚礼を成されます」と問い返した辛さは真に察して貰い度い。
第十七回 小利口な前置き
「何時御婚礼を為されます」との余の問いに、叔父は甚く驚いた様子で「其の方は何を云うのだ婚礼などと」余は怪訝に思い「松谷秀子と貴方の御婚礼は」叔父「アハヽ是は可笑しい、其の方は五十に余った己が再び婚礼すると思うのか、爾ではないよ、松谷秀子を己の養女にする
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