有難い」と心底から感謝した。
此の時鉄砲の音に驚き、此の室へ駆け附けた人は多勢有った、其の真先に立つは此の家の主人で、外から此の室の戸を推排《おしひら》こうとして「オヤ是は怪しからぬ、先刻誰にも開く様に鍵を錠の穴へ押し込んで置いたのに其の鍵が見えないが」と云って更に何処からか合鍵を取って来て戸を開き中へ這入った、主人「今のは確に先刻約束した合図でしょうネ、虎は何処に居ます」とて、煙に満ちた室中を見廻して「ヤヤ、最う丸部君が射殺したのですか流石に日頃銃猟自慢を成さる丈の手際は有る」余「イヤ私ではなく松谷嬢が射留めました」主人「夫は愈々感服です、成るほど嬢は米国に居らしった丈け銃猟も男子に劣らぬ程と見えます、何しろ私が此の虎猟に洩れたのは遺憾です」と云い、少しも余と秀子が此の室へ這入った異様な事情には気が附かぬ様子だ、尤も気の附く筈もない、虎の居るを知って人を誘き込む人や上の窓から虎の背後へ天降る狂気じみた人などは余り世間に類がないからネエ。
客一同も口々に「何うして一発や二発で射殺しました」「何うして虎を見附けました」「虎は何だって此の室へ這入って居ました」など、宛も余と秀子とが虎の心まで知って居る様に問う者さえ有ったけれど、秀子は敢て浦原お浦に疑いの掛るを好まぬと見え、成る丈け事もなげに答えた故、客一同は虎が此の室で眠って居るのを余と秀子とが見附け忍び寄って射留めたのだと思って仕舞った、斯う思わせたのは全く秀子の力で、余は益々深く其の心栄の美しいに感心したが、客の中に唯一人心の底で聊か事情を疑った人が有る、夫は余の叔父だ、叔父は物静かでは有るけれど多年検事を勤めただけ、斯様な場合には幾分か当年の鋭い所が未だ残って居る、叔父「夫にしても此の室の戸へ外から錠を卸し爾して鍵まで見えなく成って居たのが聊か不審ではないか」と言いだした。
第十六回 重い荷物
叔父の不審は成るほど有理《もっとも》至極であるが、併し真逆に余と怪美人とを此の室へ閉じ籠めて外から、錠を卸して去る様な悪戯者が有ろうとは、誰とて思い寄る筈がない、殊に客一同は虎の死骸を取り囲んで思い思いに評をして居る場合ゆえ、此の様な陰気な問には耳を傾けぬ、纔《わずか》に其のうちの一人が「ナニ此の様な遽てた時には必ず後で合点の行かぬ様な椿談が有るもんだよ、多分朝倉男爵が戸の引き手を廻さずに唯無暗と引っ張ったから、錠の卸りて居ぬ者を卸りて居る様に思ったのだろう」と云った。スルト二人ほど「爾だ、爾だ、是も話の種を増したと云う者だ」とて打ち笑った、主人男爵は何か弁解し相に構えたけれど、若し深く洗い立てして客の中の誰かの名誉にでも障る様な事が有っては主人の役が済まぬと思ったか、夫とも真実に自分の思い違いと思ったか同じく打ち笑って「夫にしても合い鍵の用意が有って仕合せでした、合い鍵を右へ廻したか左へ廻したか夫さえ覚えぬ程ですけれど、若し合鍵がなかろう者なら、益々|周章《あわて》て、錠の卸りて居もせぬ戸を、自分の腕が脱けるまで引っ張る所だったかも知れませんアハヽヽヽ」と訳もなく腹を抱えたので、叔父の疑いは煙に捲かれた様に消えた。
併し叔父自身は猶疑いの解けぬ様で、客一同が或いは虎の死骸を評し或いは松谷嬢の狙いを褒め或いは昼間より鉄砲を籠めて万一に備えて置いた主人男爵の注意を称するなど我れ先に多舌《しゃべ》り立てて居る間に、切《しき》りに室の中を詮索する様子で有った、余は眼の角から、見ぬ振りで見て居たが到頭叔父は卓子の下に落ちて居る紙切れの様な者を拾い衣嚢の中へ入れた様だ。
此の外には別に記すほどの事もなく此の夜は済んだ、翌朝余は早くに叔父の室へ機嫌伺いに行った、叔父は余よりも早く起きたと見え既に卓子に向い、宛も昔検事で居た頃、罪案を研究した様に、深く何事をか考え込んで居たが、余に振り向いて、言葉短かに「お浦を是へ呼んで来い」と云った。扨は早やお浦の仕業に気が附いたかと、少し驚きながら其の命に従ったが、何うだろうお浦は叔父よりも猶早く起きたと見え、今朝早々に荷物を纒め倫敦へ立ったとの事だ、風を喰って逃げたとは此の事だろうか。
余は直ぐに叔父へ其の旨を復命した、叔父は聞き終って別に驚きもせず前よりは更に厳《おごそ》かな声で「夜前の事はお浦の詐略だろう」余「エヽ何と」叔父「イヤ、己は昨夜松谷嬢の元へ給使が手紙を持って来た時、既にお浦が害意を以て嬢を呼び出すのでは有るまいかと疑ったが、其の方が直ぐに後から附いて行った様子ゆえ間違いもなかろうと思ったのに、アノ通りだ、其の方が彼の室へ這入ると直ぐにお浦が外から戸をしめたに違いない、お浦は虎の居る事を知って居たので有ろう」真逆に余が窓から天降った事までは推量し得ぬと見えるが、何しろ其の活眼には敬服だ、余「何うして其の様にお疑いです」叔父「是を
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