り込めば宜いに違いないと余は唯此の様に思い詰めて居る、午後の一時を打つ時計の音はサア潜り込む合図である。
余は嬉しやと緑盤に手を掛けた、所が緑盤は僅かに全面の十分の一にも足らぬほど開いて其のまま止まって了った、全面の直径《さしわたし》は凡そ二尺余りも有ろうか、切めて是が七八分通りも動き、隙間が一尺五寸ほどにでもなれば潜り込む事は出来るけれど、僅か十分の一即ち二寸ぐらい開いた丈では、余は手品師でないから到底潜り込む訳に行かぬ、併し日頃自慢の大力で無理にも引き開くれば開かぬ事も有るまいと、宛かも東洋の神話に在る手力雄尊《たちからおのみこと》が天の岩戸を引き開けた様な権幕で緑盤を開けに掛かった。所が緑盤は仲々堅い、余の力も全く無益である、のみならず頓て時の鐘の響が段々に消えると共に緑盤は後戻りを始め、次第に塞がって了おうとする、幾等抵抗しても其の甲斐がない、達って抵抗して居れば余の手が秀子の被物の様に挾み剪《き》られて了うばかりである、エエ残念だと泣かぬ許りに余は手を放した、緑盤は元の通りに塞がった。
実に合点が行かぬ、何故緑盤は是だけしか開かぬで有ろう、此の前に見た時は随分潜り込む事も出来るほど開いたのに、さては秀子が、若しや自分の後を余に追っ掛けられるかも知れぬと察して、何うか云う工合に機械を狂わせ、充分には開かぬ事に仕て了ったのか知らん、夫とも少し許り開いた所で其の中へ手でも入れ、何処かに隠れて居る錠前を脱すとか、機械の一部分を止めるとかせば旨く緑盤が脱れて了うのか知らん。
様々に心を絞るけれど仕方がない、緑盤は全く鉄壁の有様だ、此の上は唯二時の鳴るのを待つ外はないであろう、遺憾ながら余は二時を待った、一刻千秋の思いとは此の事であるけれど、終に千秋は経た、二時は鳴った、緑盤は再び動いたけれど、悲しい哉、其の動き方は殆ど前と同じ事で唯前に比べて見れば一寸ほど余計に開いたに止るのだ、二寸に二寸、合わせて四寸の隙間とは、前よりは丁度倍であるけれど、四寸の穴からは未だ潜り入る事が出来ぬ、此の時も矢張り一時の時と同じ事で余は唯失望を重ねる許り、又も千秋二千秋の思いで三時を待ち、三時に失望して四時を待った、此の様な詰らぬ事は前後にない。
併し三時四時と待った為に聊か発明した所が有る、緑盤は時計の鐘が一つ打つ毎に二寸位づつ動くので二時の時は一時より二寸多く開き、三時は二時より又二寸多く、四時は又夫よりも二寸を増し凡そ八寸程開いた、此の割で見ると五時には一尺、六時には一尺二寸爾して十二時には終に全く開いて了うのだ、必ずしも秀子が機械を狂わせた訳ではなく、機械の本来の仕組が爾成って居るのだ。
斯う思うと共に余は二個の事を発明した、其の一つは、秀子が此所を潜ったのは朝の十時から昼の十二時までの間である、即ち余が茲へ来るより少し許り前であった、十時より前には緑盤の隙間が狭いから如何に女の優かな身体と雖《いえど》も這入る事の出来なんだ筈である、其の二つは、余が潜るにも今夜の十時以後でなくばならぬ、十時には二尺開くだろうから、何うか斯うか潜れよう。今から、十時まで空しく待つとは殆ど堪え難い所である、けれども待つ外に仕方がない、十時までの間に塔の底で、秀子の身が何の様になるかと思えば真に矢も楯も耐まらぬ思いである、けれど力の及ばぬ事は嘆いても詮がないゆえ、漸く我慢して十時を待つと云う事には決心したが、さて斯うなって見ると、初めて自分の身体が一方ならず疲れて居る事が分る、腹も空いて居る、眠さも余ほど目に借り越しになって居る、今まで夫を感ぜずに悶いて居られたが不思議である。
兎も角身体の精力を回復せねばと、此所を立ち去って食事もした、余所ながら叔父の病状をも見舞って、最早気遣わしい事もないとの旨を聞き定めた、爾して自分の居間に入り、九時半には起こして呉れる様に目覚時計を強く掛けて置いて、身を横にした。
三〇分と経ぬ様に思ったけれど目覚しに起こされて跳ね起きるや早九時半で、何だか電気の鬱積した様に甚く頭が重い、窓を開けて外を見ると、冬の季には珍しい天候で、空は墨を流す様に黒く、爾して雲の割れ目から時々電光が閃き、遠い雷の音も聞こえる、是が真の荒れ模様と云うのだろうと余は気象の事には素人なれど斯う思ったが、後に千八百九十八年の異様なる天候として気象雑誌などに甚く書き立てられたのは即ち此の夜の天候である、此のとき英国に居た人は此の夜が如何なる荒れ方で有ったかを充分覚えて居るだろう、けれど余は天候などは気にも留めず、唯是より塔の中へ入るに就いては、先に養蟲園の経験も有り、燈明の用意だけは充分にして置かねばならぬと思い燐燧の箱を詰め替えて、爾して忍びの蝋燭も半打《はんだあす》の包を其のまま衣嚢に入れ、愈々冥途の探険と云う覚悟で再び時計室へ登って行ったが丁
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