救い得ぬ迄も権田時介に彼様迄は譲歩せずに済んだ者を、今と為っては如何とも仕方がない。
 余は之を思うと、何がなしに只悔しく只腹立たしい、殆ど誰れ彼れの容赦もないほどの見幕で、お浦に向かっても最と邪慳に「お浦さん、貴女は実に大変な者を良人としました、貴女は未だ高輪田長三の悪事を十分の一をも知らぬのです、彼が秀子を傷つける為に、堀へ死骸を投げ込んだ位な事は極々罪が軽いのです、彼は過日来、私の叔父を毒害しようと仕て居ます、幽霊塔へ入り込んで帰らぬのは夫が為です、それに又八年以前にお紺婆を殺したのも彼の所為です、彼は通例の悪人と違い恐ろしく悪智悪才に長けて居て、自分が悪事を為すには必ず他人へ其の疑いの掛かる様に仕組んで置いて其の上でなすのです、叔父を毒害するにも其の疑いが秀子へ掛かる様に仕組んで置きました、お紺婆を殺した時も矢張り其の伝です、輪田夏子へ一切の疑いを掛けて了い、爾して自分は何事もなく助かったのです」お浦は打ち叫んだ「エエ、お紺婆を殺したのが彼の仕業、爾して叔父さんをまで毒害しようと、本統に其の様な悪人ですか、爾して私が其の悪人の妻に成ったとは」
 お浦自ら長三に劣らぬ悪人なりとは云え流石、女だけ、気の弱い所が有って、男ほどには行かぬと見え、此の語を発したまま気絶して、長椅子の上へ反返《そりかえ》った。
 余は何が何でもお浦には構って居られぬ、是だけの事が分ったに就いては益々早く秀子を尋ね出さねばならぬ。
 イヤ、待てよ、秀子を尋ね出した所で、猶権田時介との約束に縛られて居るのだから、少しも慰めの言葉を発する事は出来ず、飽く迄も秀子を汚らわしい罪人と信じて居る様に見せ掛けて居ねばならぬ、お紺婆を殺した下手人が分ったの、叔父に毒薬を与えた本人が知れたのとは※[#「※」は「くちへん+愛」、180−上14]《おくび》にも出されぬ訳だ、何たる辛い場合だろう、併し夫にしても秀子を探し出さぬ訳には行かぬ、探し出して何とかせぬ訳には行かぬ。
 幸い其のうちにお浦は人心地に復った、此の上は捨て置いても自分で回復するだろう、余は斯う見て取ったから「今誰か介抱する者を寄越します」と言い捨てて此の室を出で、此の家の女主《あるじ》を呼び、一応介抱の事を言い附けて戸表《おもて》へ出た、何うしたか知らぬけれど庭木に繋いで置いた余の馬が見えぬ、併し馬にも構って居る場合でない、其のまま外へ出て了ったが、向こうの方から慌ただしく余の馬を引いて来るは例の小僧だ、彼手柄顔に「旦那が疎漏《ぞんざい》にお繋ぎ成さった者だから、放れて飛び出しましたのを私が追い掛けてヤッと此の通り捕えて来ました」何を云うのだ自分で繋ぎを解いて乗り廻したに違いない、爾して例の通り褒美の欲しさに此の様な事を云うのだと、余は深く疑がったけれど、其のまま小銀貨を投げ与えて其の馬を受け取った、彼は猶余の顔を差し窺き「最う是だけ下されば、旦那が知り度いと思って居る大変な事を知らせて上げますけれど」余は秀子の身に就き少しの手掛かりでも得たいと思う場合ゆえ「大変な事とは何だ」小僧「貴方の尋ねて居る美人の事です、アノ日影色の着物を被た」余「己が其の美人を尋ねて居るなどと何うして知れた」小僧「今此の馬に乗って停車場まで、イヤ此の馬を追い掛けて停車場まで行き、馬車の御者から聞きました」余「シテ汝が何の様な事を知って居る」小僧「確かに銀貨二個ほどの価値の有る事を知って居ます」余は又銀貨を出して与えた、小僧「では言いますが、アノ美人が今朝早く此の家へ来ましたよ」余「此の家へ来て夫から」小僧「婆さんに逢って、大変な品物を小瓶へ一杯、買って行きました」「大変な品物とは」小僧「婆さんが容易に人に売り渡さぬ品物です、巡査にも分らぬ様にして折々内所で売る品です」余「毒薬か」小僧「ハイ」
 真に秀子が毒薬を買ったとすれば今度こそは自分で呑む積りに違いない、自殺などする女でないと確かに権田が言い切ったけれど、夫は時と場合に由る事、秀子の様に、其の身の寃罪《えんざい》を解こうとする大密旨を持って居る女が、其の密旨の到底遂げるに由なきのみか又更に別に寃罪を受けんとして之を逃れる道もなきを見ては、決して自殺せぬと限らぬ、余が自ら秀子の位置に立ったとして考えても殆ど自殺の外に道がない、秀子は其の毒薬を持って何所へ行ったか知らぬけれど、兎に角も早く捜し出して自殺だけは妨げて遣らねばならぬ、と云う中に早や日は正午を過ぎた、既に自殺した後かも知れぬ、余「シテ夫は何時頃で有った」小僧「今朝私が起きた許りの時ですから、今より六時間も以前です」余「夫から其の美人が何方へ行ったかを知って居るか」
 小僧「知って居ますとも落ち着く先まで私は見届けましたが、之は確かに銀貨三個の価が有り相です」

第百三回 何の謎

 斯うなっては小僧の請うが儘に賃
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