の方の金庫へ納め、もっと嬉し相に頬笑みて「イヤ三千ポンドは大金です、実は私も取る年齢ゆえ、最早隠退したいと思い、数年来、金子を溜めて居りますが今の三千ポンドで丁度、兼ねての予算額に達したのです、今まで随分人を救い、危険な想いをしましたから此の一回が救い納めです、再び貴方が来《いら》しってもポール・レペルは多分此の家に住んで居ないでしょう、田舎へ地所を買い、楽隠居として浮世の波風を知らずに暮らすは何ほどか気安い事でしょう」
 述懐し了って、再び第二の鉄扉を開き余と共に又中へ降り入ったが、茲は余程地の下深くへ入って居ると見え、空気も何となく湿やかで余り好い心地はせぬ、墓の底へでも這入ったなら或いは此の様な気持で有ろうか、兎に角も人間の地獄である、此の様な所に秀子の秘密が籠って居るのかとおもえば、早く取り出だして日の光に当てて遣り度い。
 気の所為か手燭の光まで、威勢がなく、四辺の様が充分には見て取られぬ、けれど何だか廊下の様に成って居て、左右にズラリと戸棚がつらなり、其の戸に一々貼紙をして何事をか書き附けてあるが、文字は総て暗号らしい、余には何の意味だか分らぬ。頓て先生は、壁の一方に懸けてある鍵の束を取り卸し、其の中から真鍮製の最も頑丈なのを余に渡し「サア此の鍵の札と、戸棚の貼紙とを見較べてお捜し成さい、そうして記号の合った戸棚を開けば宜いのです」余は全く夢を見る様な心地だ、訳も知らずに只其の差図に従い一々左右の戸棚の戸を検めた末、ヤッと記号の合った戸を見い出した。先生「サア其の鍵で其の戸をお開き成さい」
 此の戸の中に何が入って居る、之を開いて何の様な事になる、若し洞看《みぬ》く事が出来たなら、縦し又燃える火に我が手を差し入れる事はするとも、此の鍵穴へ錠を突き入れる事はせぬ所で有っただろう、けれど悲しい哉、爾まで見抜く眼力はない、只何となく悪い気持がするけれど、躊躇しても詮ない事と、差し図の儘に鍵を入れ、此の戸を開いた、中は幅も深さも二間ほど有って左の壁には棚が有り右の壁には棚が有り右の壁には又小さい戸棚が有る、云わば仏壇の様な作り方だ、爾して左の棚には白木で作った三個の箱が有る、方一尺ほどで扁《ひら》たく出来て、先ず硯箱の聊か大きい様なものだ、先刻権田時介が小脇に挾んで去った品も或いは此の類の箱ではなかったか知らん。
 只是だけの事で、何の驚く可き所もないけれど余は身体の神髄から、ゾッと寒気を催して、身震いを制し得ぬ、先生も何だか神経の穏かならぬ様な声で「茲に秀子の前身と後身が有るのです」と云い、今度は自分で彼の仏壇の様な戸を開き掛けた、余は物に臆した事のない男だけれど、自分で合点の行かぬほど気が怯《ひるん》だ、何でも今が、恐ろしい秘密の露《あらわ》れ来る間際に違いない、人生に於ける暗と明との界であろう、先生の此の次の言葉が恐ろしい、恐ろしいけれど又待ち遠い、胸の底から全身が固くなって殆ど息を継ぐ事も出来ぬ。

第七十五回 死人の顔形

 仏壇の様な戸の中も、略ぼ左の棚と同じ工合で、白木の箱が二個乗って居る。
 何の箱であるか更に合点が行かぬ、けれど唯気味が悪い、先生は暫く双方の棚を見比べて居たが頓て決定した様子で「矢張り前身を先にお見せ申しましょう、爾すれば私の手腕が分り、成るほど新しい生命を与える人だと合点が行きます」
 斯う云って左の棚から其の箱を取り卸した。「サア此の箱を開けて御覧なさい」余は開ける丈の勇気が出ぬ、「ハイ」と云ったまま躊躇して居ると先生はじれった相に「では私が開けて上げましょう」とて余の手に在る鍵の束から一個の鍵を選り出し「ソレ此の鍵の札と此の箱の記号とが同じことでしょう、貴方には是が分りませんか」と叱りつつ箱を開いた、兎に角之ほど用心に用心して納《しま》って居る箱だから中には一方ならぬ秘密を隠して有るに違いない、鬼が出るか蛇が出るか余は恐々に其の中を窺いて見た。
 第一に目に留まるは白い布だ、白い布で中の品物を包んで有るのだ、先生は箱の中に手を入れて其の布を取り除き、布の下の品物を引き起した、何でも箱の中に柱が有って、蓋する時には其の柱を寝かせ、蓋を取れば引き起す事の出来る様に成って居るのだ。
 引き起された其の品は何であろう、女の顔である、余は一時、生首だろうかと怪しんだが生首では無い、蝋細工の仮面である、死んだ人の顔を仮面に写して保存して置く事は昔から世に在る習いで其の仮面を「死人の顔形」と称する由であるが、此の蝋細工は即ちそれである、誰の顔形だか兎に角も顔形である、余は一目見て確かに見覚えの有る顔と思ったが、見直すとそうでない、円く頬なども豊かで先ず可なりの美人では有るが、病後とでも云う様で気の引き立たぬ所が有る、寧ろ窶《やつ》れたとも云う可きである。
 先生は更に箱の中から、少し許りの髪の毛を
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