利殖させて有る、其の額が今は一万ポンドの上になり、余に使われるのを待って居るのだ、今こそは使って遣る可き時である、幸に此の巴里にも叔父の懇意な取引銀行が有って其の頭取は曾て英国へ来て叔父に招かれ余と同席したのみならず、余も叔父と共に其の後巴里へ来て其の頭取に饗応せられた事もある、此の人に話せば大金とはいえナニ三千や五千、一時の融通は附けてくれる。
その旨を先生に話すと先生も兼ねて其の銀行頭取を知って居るとの事だ、併し其の金を我に払うとの旨は決して頭取へも何人へも話す可からずと口留めをせられた。素より誰にも話すべき事でない、それではと愈々茲を立とうとすると先生は自分の馬車を貸して呉れた。馬車には先刻見た取り次の老人が御者役を勤めて居る、察する所此の老人は先生の真の腹心だ、先生は猶幾分か余を疑い若しや探偵ではないかと思う為、実は此の様な事をして腹心の者に余の挙動を見届けさせる積りらしい。
頓て銀行へ行った、余は来たり。余は観、余は勝てりという該撤《しいざあ》の有様で、万事旨く行って少しの間に金も手に入った。勿論利子を附けて返す筈である。夫も一週間を過ぎぬと云う約束だから余り余の信用を誇るには足らぬ、爾して先生の許へ帰って行くと、先生は暫く次の間へ退いたが、御者から余の挙動を聞き取る為であったと見える、其の結果に満足したか十分間も経たぬうちに又余の前へ来た。今度は前よりも打ち解けた様に、顔の締りも幾分か弛んで居る。「サア直ぐに事務に取り掛りましょう。此方へ」との案内が先生の最初の言葉であった。之に応じて先生の後へ随き、更に奥まりたる一室へ通ったが茲にも種々の鏡を備えてある、先生は誇り顔に笑みて「茲は、私の書斎です、茲に居れば来訪する客の姿が悉く分ります」といい、更に「貴方の様子もお目に掛る前、此の鏡に写し一応検めましたが、逢っても危険のない人だと見て取りました。権田時介の姿を見て、急いで外へ出た時の様子などが、何うも素人らしくて探偵などとは違って居ました」
今は斯くあろうと思って居た故、別に驚きもせぬが、此の室で何をするのか更に合点が行かぬ故「先生、茲で報酬を差し上げましょうか」先生「イヤ報酬は無難な所へ行って戴きます、此の室へは下僕でも誰でも這入って来ますから」云いつつ先生は一方の棚から二個の手燭を取って火を点した。猶だ昼だのに手燭を何にするのだろう、頓て「サア是を持って私と一緒に来るのですよ」と教え、書棚の中から厚い本を二冊ほど抜き出した。爾して其の本の抜けた後の空所へ手を差し入れたが、秘密の鈕《ぼたん》でも推したのか忽ち本箱が扉の様に両方へ開いた。其の背後は暗室になって居る、成るほど秘密の仕事をする人の用心は又格別だと、余が感心する間に先生は暗室へ入って余を呼んだ、余も続いて其の中へ這入った、スルト先生は又も何所かの鈕を推したらしいが、扉の書棚は元の通り閉じて了った。秀子を救うのと此の暗室と何の関係が有るだろう。余と先生と、暗室の中に全くの差し向いである。
第七十四回 前身と後身
余を此の暗室へ連れ込んで何をするのか、余は少しも合点が行かぬ。
先生はそれと見て説明した。「私が何の様にして松谷秀子嬢を救うか貴方には少しも分りますまい、此の暗室の中で其の手段だけを見せて上げるのです、見せて上げれば此の前に私が何の様にして嬢を救ったか、救われる前の嬢の有様は何うで有ったか、ポール・レペルの手際が何れほどで有るか総て分ります」
斯う聞いては早く其の手段を見せて貰い度い。取り分けて此の先生に救われる前の秀子の有様などは最も知り度い、扨は此の暗室の中で詳しく秀子の素性成長などが分るのかと早や胸が躍って来た。
先生「茲は猶だ入口です。サア、ズッと深くお進み成さい」言葉に応じ手燭を振り照らして見ると、成る程茲は穴倉の入口と見える、少しむこうの方に、下へ降りる石段が有る、気味は悪いが余は先に立って之を降った、降り盡すと鉄の戸が有って、固く人を遮って居る。先生は戸に不似合なほど小さい鍵を取り出して此の戸を開いた。中は十畳敷ほどの空な室になって居る、此の室へ這入ると先生は又も戸を閉じ「茲が私の秘密事務を取る室です、茲までは私の外に誰も来ません、金庫も此の室へ備えて有ります」と、茲で報酬を差し出せと云わぬ許りの口調なれば、余は彼の三千ポンドを出して渡した。
不思議にも此の室には電燈が備えて有る、先生は電燈の鈕を推して忽ち室を昼の様にした。余は手燭を消そうとしたが、先生は遽てて「イヤ未だ消しては可けません、茲より奥には電燈がないのですから」余「猶だ此の奥が有るのですか」先生「無論です」とて先生の指さす方を見ると成るほど一方の壁に第二の鉄の扉が有る、斯うまで奥深く出来て居るとは実に用心堅固の至りだ、其のうちに先生は報酬の金を数え盡し隅
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