たが、廊下で又も森主水に逢った。彼は用ありげに余を引き留め「丸部さん、先刻秀子を引き立てるには猶だ三日の猶予が有る様に申しましたが事に由るとそれ丈の猶予がないこととなるかも知れません」余「エ、事に由ると、貴方はあれほど堅く約束して今更事に由るとなどは何の口で仰有るか」森「イヤ一つ言い忘れた事が有ります。若しも叔父上は明日にも病死なされば、既に毒害という事が其の筋の耳に入って居ますから、必ず検屍が居るのです、検屍の結果として直ちに其の場から秀子が引き立てられる様な場合となれば私の力で、如何ともする事が出来ませんから是だけ断って置くのです」成るほど其の様な場合には森の力には合うまいけれど、此の言葉は実に余の胸へ剣を刺した様な者だ。
 叔父の身は果たして三日の間も持ち兼ねる様な容体であろうか。若し爾ならば見捨てて旅立する訳には行かぬ。秀子を救い度い余の盡力も全く時機を失するのだ、実に残念に堪えぬけれど仕方がないと、余は甚く落胆したままで叔父の病室へ入った。叔父は目を覚まして居る。「オオ、道九郎か、今女中に呼びに遣ったが」余「ハイ叔父さん、御気分は何うですか」叔父「一眠りした為か大層宜く成った。此の向きなら四五日も経てば平生に復るだろう」成るほど大分宜さ相だ。真逆に探偵の云った様な三日や四日の中に検屍が有り相には思われぬ。余は聊か力を得て「若し叔父さんの御用がなくば、私は止むを得ぬ用事の為大急ぎで巴里へ行って来たいと思いますが」叔父は目を張り開いて余の顔を見「又旅行か」と殆ど嘆息の様に云うは余ほど余の不在を心細く思うと見える。余「ハイ行き度くは有りませんが止むを得ぬ用事です」叔父「其の方が居なくては定めし秀子は困るだろう」秀子の事を斯うまでに云うは、猶だ秀子を見限っても居ぬと見える、余は其の心中を確かめる様に「ハイ何だか秀子が様々の疑いを受けて居る様に聞きますが」叔父「ナニ秀子は己に毒などを侑《すす》める者か、外の事は兎も角も、其の様な事をする女ではない」叔父が疑って居ぬのは何よりの強みで有る。併し「外の事は兎も角も」の一句で見れば、外に何か秀子の身に疑う所が有って、今まで程に信任しては居ぬらしい、何うか余は秀子の為に警察の疑いを解くのみならず、叔父の信任をも回復する様にして遣りたい。
 叔父は熟々《つくづく》と何事にか感じた様な語調で「併し秀子も可哀想な身の上だ。若し己れが死にでもすれば何の様な事に成り行くやら」余「叔父さんがお死に成さるなどと其の様な事が有りますものか、縦しや有っても秀子は私が保護しますから」叔父は余が秀子を保護するを好まぬか、一言も返事をせぬ。今まで余と秀子とを早く夫婦にも仕たい様に折々言葉の端に見えたとは大きな違いだ、叔父は又感じた様に「アア此の世の事は兎角思う様に行かぬ、全く悪魔の世界だよ、悪魔が人間を弄ぶのだ、己は最う何事もなり行きに任せて、遺言状も書き替えぬ、書き替えたとて又も悪魔が干渉すれば無益だからよ」
 言葉に籠る深い意味は察する事が出来ぬけれど、甚く此の世に不満足を感じて居るは確かだ。或いは余が秀子を思い始めたのを悪魔の干渉とでもいうのだろうか。秀子に身代を遣るという遺言状を書き替え度いのは見えて居るが夫を書き替えれば余の身の利害にも関係するから、夫ゆえ書き替えずに断念《あきら》めると云う意味であろうか。余は聊かながら直接に余の父から伝えられた余の財産が有るから、縦しや遺言を書き替えられても別に苦痛とは思わぬが、茲で其の旨を云うのは却って叔父の気に障るか知らんなど、取つ置いつ思案して右左《とこう》の挨拶も口には出ぬ。叔父「アア又眠くなった、医者が眠れるだけ眠れと云うから、幾分か好い兆候と見える、話は此の後に幾等もする時が有るから巴里へ行くなら早く行って来い」といい褥の上に身を横たえた。余は去るに忍びぬ心地もするが、情に駆られて居る場合でない。「叔父さん何事も御心配に及びません」との一語を残して、静かに此の室を退き、仕度もそこそこに愈々此の家を出発した。巴里に行って果たして何の様な事になるか殆ど無我夢中である。

第七十回 鏡に写る背影《うしろかげ》

 ポール・レペル先生とは何の先生であろう。余は夫さえも知らぬ。全く無我夢中ではあるけれど唯何となく其の人に逢いさえすれば秀子が助かる様に思う、尤も外に秀子を助くべき道はないから何が何でも此の人に逢って見ねばならぬ。
 此の様な決心で塔を出て、夜に入って倫敦へは着いたが、最う終列車の出た後だ、一夜を無駄に明かすも惜しい程の場合だから、何か此の土地で秀子の為になる仕事は有るまいかと思案して、思い出したは彼の弁護士権田時介の事だ。
 今まで彼の事を思い出さなんだが不思議だ。彼が秀子の秘密を知り且は一方ならず秀子の為を計って居る事は今まで能く知れた事実で、此
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