子の着たものとすれば秀子は牢破りの罪人か知らん、アノ服を着けたまま監獄から忍び出て来たのか知らん、思えば思うほど恐ろしい。
待てよ秀子の着物の中には医学士と自称する大場連斎の名札が有った。連斎は一頃監獄医を勤めたと穴川が云って居た。此の辺の事柄を集めて見ると一概に森主水の言葉を斥ける訳に行かぬ。秀子は前科者で無いとは限らぬ、而も脱獄の秘密まで有るが為で、夫に今までも甚蔵等にユスられる境涯を脱し得ぬので有ろうか。
余は腹の中は煮え返るほど様々に考えた末、森に向い「では是から何うなさるのです」と問うた。森「する事は極って居ます、繩掛けて引立てる迄の事です」余「だって秀子が前科者で有る無しは今の所単に貴方の推量では有りませんか、推量の為に人を拘引するなどは」余「イヤ前科者で有る無しは別問題です、縦しや前科者と極った所が既に服する丈の刑を服して来たのならかれこれ私が問う訳はなく、其の点は唯心得までに調べさせて有る丈です。其の点の如何に拘わらず、既に貴方の叔父御に毒害を試みたという明白な罪跡が分りますから、此の儘に捨て置く事は出来ません」余「何時拘引するのです」森「是から私が詳細の報告書を作って倫敦へ送り其の筋から逮捕状を得ねばならぬのですから、多分は明後日になりましょう。是は職務上の秘密ですけれど真逆《まさか》に貴方が秀子に知らせて逃亡させる様な事は有るまいと信ずるからお打ち明け申すのです。其の間に若し秀子が逃亡すれば貴方が幇助した者と認めますよ」
余「私は飽くまで其の嫌疑の無根な事を信じますもの、何で逃亡を勧めますものか、又秀子とても其の身の潔白さえ恃《たの》んで居ますもの。何で逃亡など仕ますものか」と余は立派に言い切ったけれど実は心細い。どうかして逃亡させる工風はあるまいかと思いたくはないけれど独りそう思われる。
けれど若し逃亡せねばならぬ様な身上の女なら勿論愛想の盡きた話で、逃亡させる必要もなく寧ろ余から繩を掛けて出さねばならぬが、秀子に限って其の様な事は決してない、どうしても余の力で其の潔白を証明して遣らねばならぬ、何うすれば其の証明が出来るだろう、余が唯一つの頼みとするは甚蔵から聞いた彼の巴里のポール・レペル先生だ。兎に角も此の人に相談する外はない。若し此の人が深く秀子の日頃を知り、決して前科者でなく、決して毒薬など用うる女でないといえば此の土地へ伴うて来て証言させる。此の人と秀子との関係は分らぬけれど、秀子に新しい命を与えるとまで云われる人だから、此所で其の新しい命を与え、死中に活を得て秀子の危急を救うて貰わねばならぬ。
余は堅く決心して、森に向い、何うか秀子の拘引を今より三日猶予して呉れと請い、其の間には必ず反対の証拠を示しますと断言した。森「イヤ今から三日ならば大方私の思う通りですから、別に貴方の請いに応じて猶予して上げるという程でもありません。反対の証拠が(若しあるなら)充分にお集めなさい、併し三日より上の猶予は決してありませんよ」余「宜しい」森「何うして貴方から決して秀子に逃亡させぬという事を誓って貰わねばなりません」余「誓います、決して逃亡はさせません」先ず相談一決した様な者だ。巴里へ行って何の様な事になるかは知れぬけれど外に何の工風もないから、余は早速巴里を指し出発する事とした。
第六十九回 悪魔の世界
心矢竹《こころやたけ》に逸《はや》るとは此の時の余の思いであろう。一刻も早く巴里へ行きレペル先生とやらに逢って、一刻も早く秀子を救う手段を得たいとはいえ、真逆《まさか》に死に掛って居るという我が叔父の顔をも見ずに出発するわけにも行かぬ。叔父の目の覚めるまでは何うしても待って居ねばならぬ。
待つ間を、秀子の室に行ったが、探偵の云った事を其の儘秀子の耳に入れる訳には行かぬ。御身は果たして前科者なるやと、茲で問えば分る事では有るが、余の口が腐っても其の様な事は能う問わぬ。前科者でないに極って居るのに何も気まずく問うに及ばぬ、又茲で逃亡を勧めるのも最と易い、けれど是も必要のない事だ、潔白と極って居る者に、逃亡など勧める馬鹿が有る者か、其の潔白の証拠を集めるのが此の巴里行の余の目的ではないか。
余は唯秀子に向い、何も彼も余が引き受けたから少しも心配するに及ばぬ、親船に乗った気で居るが好いとの旨を、繰返し繰返して云い聞かせた、秀子は誰一人同情を寄せて呉れる者のない今の境涯に、此の言葉を聞き深く余の親切に感ずる様子では有るが、併し親船に乗った気には成れぬと見える、兎角に心配の様子が消えぬ。
其のうちに叔父が目を覚ましたと、女中の者が知らせて来た。余は秀子に向い、止むを得ず巴里へ行くけれど一夜泊で帰ると云い猶留守中に何事もない様に充分計って置いたからと、保証する様な言葉を残し、直ちに叔父の寝室をさして行っ
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