捧げさせようと云うのですから一通りや二通り秀子の身の運命を握って居るのではなく、全く秀子を、自分の思う儘にする事が出来るのです。秀子を助けると助けぬとは、其の人に縋るか其の人を度外に置くかの区別です、嘘と思って其の人にあって御覧なさい、縦しや秀子が死んだとても其の人なら新しい命を与えて秀子を生き返らせる事が出来ると云っても好い程です」
 余は問い返さぬ訳に行かぬ。
「其の人は誰ですか」穴川「サア其処が私の秘密ですよ、只は聞かせる事が出来ません、貴方から堅い約束を得た上でなくては」余「何の様な約束です」穴川「私を其の筋へ訴えたり、又は外国へまで遣ったりする前に、屹度其の人の所へ行くという約束です」余「其の様な約束が何になります」穴川「私に取っては重大な事柄です」余「何んで」穴川「貴方が其の人の所へ行って頼みさえすれば成るほど是では穴川を窘《いじめ》るにも訴えるにも及ばぬと云う合点が行って、私の有無を構わぬ事に成りますから」余「若し其の人の所へ行って、貴方の言葉が嘘だと分ったなら」穴川「其の時には私を訴えようと、何うなさろうと御随意です、勿論此の通りの身体ですから貴方が其の人の所へ行って来る間に逃げ隠れをする訳にも行かず、帰って来て捕えようと裁判所へ引き出そうと、ハイ何の様な目にも遭わす事が出来るのです」
 成るほど夫もそうである、其の人に逢って見て、若し余が穴川に欺されたと分れば其の上で散々に穴川に仇を復す事が出来る。欺される気で、其の人に逢って見るも一策だ。余「では其の人の住所姓名を聞かせて下さい」穴川「佶《きっ》と其の人の所へ行くと約束しますか」余「します」穴川「行くなどといって、行かずに其のまま私を訴えたりすればそれこそ秀子は助かりませんよ。秀子は其の人から新しい命を貰わねば助かり様のない身体です。今までも既に一度新しい命を貰って、其の恩返しに、密旨の為に働いて居るのだから今度も矢張り新しい命を貰い、爾して幸福の中へ更に生まれ返った様に成らねば無益です」
 余り異様な言葉だから、多分は余を馬鹿にする積りだろうと幾度か思い直したけれど、実地に試さねば分らぬ事、エエ欺されて見ようと思い「必ず其の人の許へ行く事を約束しますから住所姓名を聞かせて下さい、サア誰ですか」穴川は此の際になり、嘘か誠か、惜し相に少し躊躇し「仕方がない、私の身には大変な損害ですけれど云いましょう。巴里のラセニール街二十九番に住んで居るポール・レペル先生です」扨は日影色の着物から出た彼の医学士の名刺に、御身を助けるは広い世界に此の人の外にないと書いて有った其の人だ、事の符号して居る所を見ると満更嘘らしくもない。縦しや嘘にしても、多少は此の人が秀子の身の秘密に関係して居る丈は、確からしいから兎に角逢っては置く可きだと、余が心に思案する間に、甚蔵は全く残念に堪えぬ様子で「エ、此の人が再び秀子を保護し、新たな生命を与えたなら、最う秀子をユスる事も何うする事も出来ぬ、大事の金の蔓に離れる様な者だけれど、背に腹は替えれぬから仕方がない」と呟いた。余「では成る可く早く其の人の所へ行く事に仕よう」と口にも云い心にも思いて、甚蔵に分れを告げ、直ぐに此の室の窓を開いて其所から出て、爾して窓の外から先程の短銃をば「サア確かに返しますよ」と云って内へ投げ込み、ヤッと此の厭な養蟲園を立ち出でた。

第六十五回 今は又――今は又

 養蟲園を出て、余は直ぐにも巴里へ行き度い程に思ったが、併し先ず秀子の顔を見たい。既に二日も秀子に逢わぬから、何だか他の世界へでも入った様な気がする、平たく云えば秀子の顔が恋しいのだ。
 此の時は既に夜明けで、夫から歩んで停車場へ着いたのが丁度一番汽車の出る時であった。直ぐに乗って午後の二時頃に幽霊塔へ帰り着いた、玄関へ歩み入ると番人が異様な顔して「秀子様も旦那様も貴方の行く先の分らぬのを大層御心配でした」と云う。其の言葉には語句の外に尋常《ただ》ならぬ所が見える、若しや余の留守に何か又忌わしい事件でも起こったのかと余は毎《いつ》になく胸騒ぎを覚え、唯「爾か」と答え捨てゝ後は聞かずに秀子の室へ馳せて入った。
 何事にも用心の行き届く日頃に似ず、室の戸も開け放して有る、中に入れば隅の方の傾斜椅子に、秀子は身を仰向けて倚り掛り、天井を眺めて、散し髪を椅子から背後へ垂らし、そうして両手を頭の上へ載せて組んで居る。実に絶望とも何ともいい様の無い有様である。殆んど余の来た事さえ気が附かぬ程に見えるから、余「秀子さん何う成さった」秀子は驚いた様に飛び起きて「オオ好う早く帰って下さった」と云い其のまま余の胸へ縋り附いた。不断は仲々此の様な事をせず、恐れでも悲しみでも又は嬉しさでも総て自分の胸へ畳み、最と静かに、何気なく構えて居る質だのに、今に限り斯うまでするは能く能くの
前へ 次へ
全134ページ中73ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
黒岩 涙香 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング