は何う云う訳で」余「何う云う訳とて、貴方が此の国に居ては秀子の幸福に邪魔に成ります」彼は何等かの決心を呼び起そうとする様に暫く無言で考えたが、頓て「左様さ邪魔にもなり助けにもなり、夫は私の心一つです、けれど否と云えば何うします」余「厭と云えば捕吏を差し向ける許りの事です。私が此の室へ忍び込んだのも、捕吏《ほり》を差し向ける丈の罪跡を得たいばかりの一念です。今は充分の罪跡《ざいせき》を見届けたから、貴方の否応は大して私に利害はなく、応と云えば無事に外国へ逃がして上げるし、否と云えば死刑と云う法律の手を仮りて人間の外へ、ハイ此の世の外へ引越して戴く許りです。サア何方を択《えら》びますか、敢て私から何方にせよと勧める訳ではない、唯貴方の随意の一言を聞けば好いのです、応ですか、否ですか」
彼の顔附きは見るも憐れな有様である。立腹と当惑と、決心と恐れとが戦って居る、頓て彼は弁解する様な口調で「罪跡とて私に何の罪跡が有るのです、正直に蜘蛛を養って一家を立てて居る殖産家ですが、エ、二階に白痴を留め置いたのが罪跡ですか。彼は私の知った事ではなく、唯大場医学士、イヤ医学士ではないけれど仮に医学士と云いますが、監獄医大場連斎の頼みに応じ二階の空間を貸した迄で、貸した室へ大場が何を入れて置くか私の知った事では有りません」偖は彼の医学士は監獄の医者を勤めて居た者と見える、余「勿論大場の罪と云う事は逃れますまいが――」穴川「イイエ大場とても爾ほどの罪ではないのです、世間の医者が誰もする一通りの事をして居るのです」余「エ、世間一通りの事」穴川「ハイ夫は最う素人が聞けば驚きましょうが、医者と云う他人の家へ立ち入る商売から云えば当り前です。孰れの家にも随分家名に障る様な家族は有る者で、公の養育院や瘋癲院《ふうてんいん》などへは入れ兼ねる場合に医者に頼むのです。医者は頼まれて真逆に人一人を殺して了う訳にも行かず、仕方なく尤も秘密の場所を求めて隠し飼殺しにするのです。だから繁昌する医者は、大抵此のような秘密の場所を特約して有るのです」余「アノ贋医学士は其の様な繁昌する医者ですか」穴川「イヤ繁昌は何うだか知りませんが、彼は昔監獄医を勤めた丈に、人の家の秘密を他の医師よりは余計に知って居て、自然に秘密事件を頼まれることも多いのです。今居る白痴なども其の一です、成るほど白痴に対して多少は不行届きも有り、手当の悪いと云う非難は免れぬかも知れませぬけれど、それを罪跡などとは」余「成るほど私の思い違いかも知れません、併し罪跡か否やの鑑定は貴方と私と素人同志で茲で争ったとて果てしがないから先刻も云う通り其の筋の判断に任せましょう、寝台が陥穽に成って居て、眠って居る者を出し抜けに古井戸へ落し込んだり、或いは当主の母が燈火を持って、庭へ穴を掘り、爾して公の手続きも経ずに埋めた死骸が数の知れぬ程あるなどは、其の筋で医者の普通と認めるか、縦し又普通と認めた所で、家の当主には何の構いもない者か、其の辺の所は直ぐに分りますから、其の方が早道です。ドレ穴川さん誠に長座を致しました」と故と謝する様に云い、余は胸の中に充分の勝利を畳んで、座を立ちかけた。
第六十四回 新たな生命
余が愈々立ち去ろうとするを見て、穴川はあわてて熱心に引き留めた。「お待ち成さい、お待ち成さい丸部さん、少し云う事が有りますから」
偖は彼全く閉口したと見える、余は言葉短かに「何ですか」穴川「貴方は未だ秀子の身の上を知らぬのです、私を追い払えば秀子が助かると思うから間違いです。秀子の身の幸福にする事の出来るは広い世界に唯一人しかないのです、其の人は私では有りません」実に異様な言い分で、余は合点し兼ねるけれど、何だか口調が嘘らしくも見えぬから「エ、何ですと」穴川「其の人の許へ行って頼みさえすれば、イヤ其の人が諾《うん》と承諾しさえすれば、誰が何と云ったとて秀子をどうする事も出来ません。私が此の国に居ようが居まいが少しも関係はないのです。又其の人の承諾を得ぬ限りは貴方が何の様に骨折ったとて少しも秀子の身を幸いにする事は出来ません、云わば秀子が神の使いの様な者で神の意一つで幸福にも不幸福にも成るのです。其の神へ願わずに他人が小刀細工を施したとて何うなりますものか」是だけ云いて余が猶充分に信ぜぬ様を見、「丸部さん、貴方は秀子が密旨を帯びて居ると云うのを聞いた事は有りませんか。それを聞いた事がなくば私の話は分りませんが、若しも聞いた事が有るなら必ずお分りになりますよ」益々奇妙な事を云うが、併し秀子の密旨などを持ち出す所を見れば聞き捨てる訳にも行かぬ。余「ハイ聞きました」穴川「命に代えても行い度いと云う程の密旨ですから一通りの事では有りません。其の密旨を誰が秀子に授けました。私の今云うた神様です、サア其の神様は秀子に命をも
前へ
次へ
全134ページ中72ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
黒岩 涙香 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング