けるには及ばぬ事柄かは知らぬが斯う落も無く取り計ろうが余の流儀で、何事にも盡《つく》す丈の手を盡さねば気が済まぬから仕方が無い。
是で宿へ帰り、是だけの事を叔父に話し、爾して更に、彼の時計の捲き方を知って居る人の有る事を話した、叔父は非常に喜び、若し其の人に逢う事が出来るなら贋電報に欺されて此の地へ来たのが却って幸いだと云い、是非とも晩餐を共にする様に計って呉れと云うから、余は彼《か》の怪美人を捜す為に室を出て帳場の方へ行くと丁度廊下で怪美人に行き合った、是々と叔父の請《こい》を伝えると怪美人は少し迷惑気に「私だけなら喜んでお招きに応じますが、実は外に一人の連れが有りますので」余「結構です、其のお連れとお二人」美人「ですが其の連れに附き物が有りますよ」附き物とは何であろう、余「エエ附き物」美人「ハイ、一匹、狐猿と云う動物を連れて居まして、何処へ行くにも離しませんから、人様の前などへは余り無躾で出られません」狐猿とは狐と猿に似た印度の野猫で、木へも登り、地をも馳け、鳥をも蛇をも捕って食う動物だが何うかすると人に懐《なつ》いて家の中へ飼って置かれると、兼ねて聞いた事はある、余「ナニ貴女、人の前へ飼犬を抱いて出る貴婦人も此の節は沢山あります、狐猿を連れて居たとて晩餐の招きに応ぜられぬ筈は有りません」美人は渋々に、「ではお招きに応じましょう、貴方の叔父様の様な名高い方には予てお目に掛り度いと思って居ますから」と約束は一決した。
余は喜んで叔父の室へ帰ろうとすると、美人は何か思い出した様に追っ掛けて来て呼び留め「愈々叔父様が幽霊塔を買い取れば貴方もアノ屋敷へ棲む事になりますか」余「ハイ」美人「では必ず、今日私のお目に掛ったアノ室を貴方のお居間と為し、夜もあの室でお寝み成さい」実に不思議な忠告だ、余「エあの、お紺婆の殺されて、幽霊の出るという室ですか」美人「大丈夫です、幽霊などは出や致しません、私は先刻もお紺婆の寝たと云う寝台へ長い間寝て見ましたが何事も有りません」成るほど此の美人はあの寝台から幽霊の様に起きて来たので有った。併し余り不思議な註文ゆえ「ですが貴女は何故其の様な事をお望みなさる」美人「分る時には分りますよ」と、先刻も余に云った同じ言葉を繰り返し、更に続けて「貴方が若し此の事を承知為さらずば、私は貴方の叔父御にお目に掛りません」余「ト仰有っても幽霊の出る室、イヤ出ると言い伝えられて居る室を、私の居間にするとは其の訳を聞いた上で無ければ私もお約束は出来ません」美人「イヤ私は自分では神聖と思う程の或る密旨《みっし》を持って居るのですから、其の密旨を達した上で無ければ何事も貴方へ説明する事は出来ませんが――」密旨、密旨、今時に密旨などとは余り聞いた事も無い。併し此の美人のする事を見れば、如何にも密旨でも帯びて居そうだ、密旨、密命に使われて居るので無ければ、人の殺された寝台に寝たり、養母殺しの墓へ参詣したり其の様な振舞はせぬ筈だ、余「其の密旨とは人から頼まれたのですか」美人「イイエ、自分から心に誓い、何うしても果さねば成らぬ者と決して居るのです、是だけ打ち明けるさえ実は打ち明け過ぎるのですけれど、貴方は正直な方と見えますから打ち明けるのです」余「夫だけの打ち明け方では未だ足りません、約束は出来ません」美人「イエ、何も貴方の身に害になる事では無く、あの室を居間にさえ為されば必ず私に謝する時が有りますよ」外の人の言葉なら余は決して応ずる所で無いが、此の美人の言葉には、イヤ言葉のみで無い目にも顔にも何となく抵抗し難い所が有る、此の異様な請に応ずれば、其の中には此の美人の密旨の性質も分る時が来よう、幽霊の出る室へ寝るも亦一興と、多寡《たか》を括って「では約束します、あの室を居室と仕ましょう」美人「爾成されば、昔から那の家に伝って居る咒文が手に入りますから、其の咒文を暗誦して、能く其の意味をお考え成さい、必ず貴方に幸福が湧いて来ますよ」密使の繧ノ咒文などとは、文明の世には聞いた事も無い言葉だ、余「其の咒文を暗誦すれば妖術を使う事でも出来ますか」美人「妖術よりも勝った力が出て来ます」余「其の様な力が今の世に有りましょうか」美人「有るか無いか、夫も分る時には分ります」
何所までも人を蠱惑《こわく》する様な言い方では有るが、余は兎も角も其の言葉に従って怪美人の密旨をまで見究めようと思ったから、言いなりに成って夫から叔父の所へ帰り美人が一人の連れと共に晩餐の招きに応ずる旨を述べた、尤も此の美人の素性は語らず、単に余の知人で松谷秀子と云うのだと是だけを叔父には告げて置いた、叔父は直ちに別室を借り、之へ食事の用意を為さしめ、用意の整うと共に給使を遣って松谷秀子を招かせた、叔父は例の通り陰気に物静かだが、余の許嫁《いいなずけ》お浦は益々不機嫌だ、日頃の
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