く事も出来ぬから、其のまま無言《だま》って了ったが、其のうちに愈々検屍の時刻とはなった。
第四十回 三十ぐらい
愈々お浦の死骸検査は始まった、余は読者に対し茲で死骸検査の事柄を簡単に説明して置きたい。
死骸検査とは一種の裁判の様な者だ、検査官の外に警察医の立ち会うは勿論の事、十二名の陪審員がある、此の陪審員が種々の事を判断するので、決して死骸を検査するのみではない、第一に此の死骸は誰の死骸か、第二に自分で死んだのか他人に殺されたのか、第三に殺されたとすれば謀殺か、故殺か、第四に之を殺した下手人は何者か、第五に其の殺した者の目的は何であるか、第六に其の者を本統の裁判に持ち出す可きや否やと、凡そ第六条を詮議するのだ、だから通例の死骸検査で以て嫌疑者が定まり、裁判に移す値打ちの有るかないかも定まる、若しも陪審員の疑いが松谷秀子に掛かっては大変だ、秀子は到底、裁判所へ引き出されずには済まぬ、余は何うか秀子を助けて遣り度い、自分が証人として此の検査官の前で審問せられるを幸いに、何うか秀子の利益になる事を申し立て、陪審員をして此の死骸に就いては一人も嫌疑者を見出す事が出来ぬと云う判決を下させ度い、所が悲しい事には秀子の利益に成る様な事柄は一個もない、余が知って居るだけの事を述べ立てたら秀子は決して助かりッこがない、イイエ此の女は悪事などする様な者では有りませんと余の信ずる所を述べたとて何の益にも立たぬ。
家の人誰も彼も、殆ど残らずと云っても好いほどに秀子を疑って居るのだから何うも陪審員なども秀子を疑うであろう、殊に高輪田長三などは秀子を捕縛せしむるまでは休《や》まぬであろう。
余は此の様に思って、只管検屍を恐れたが、恐れても其の甲斐はない、定めの時刻に少しも違わずに検屍は始まった、場所は彼の玉突き場の隣に在る広間である、お浦の死骸も其所に在るのだ。
証人として第一に呼び出されたのが余の叔父だ、叔父は堀の底を探っては何うだと言い出した発頭人である為、何故に堀の底へ目を附けたかとの廉《かど》を問われるのだ、次が高輪田、次が根西夫人、次が秀子、最後が余と云う順序である、余は是等の人々が検査官の問いに対し、何の様に答えたか勿論知る事は出来ぬけれど、後で聞いた所に由れば、叔父は「此の死骸を誰と見るや」との問いに「先の養女お浦と認める」と答え高輪田は「首のない屍骸ゆえ誰とも認める事は出来ません」と少し理窟っぽく答え、「然らば此の死骸に附いて居る衣服其の他の品物に見覚えはないか」と問われ、「品物は悉く見覚えが有ります」とてお浦が失踪の当日身に着けて居た品だと答えたので、極めて明瞭な答えだと褒められた相だ、根西夫人も、秀子も、余の叔父と同様に、死骸は勿論お浦の死骸だと云い、品物にも覚えがあるとて有りの儘を答えたが、検査官は殊に秀子には目を附けて、猶彼の異様な手袋の事を問うた、秀子は少しも隠さずに、其の手袋は自分の物で、お浦が失踪の当日自分の手から取ったのだと云い、お浦が此の家の書斎で消滅する様に居なくなった次第も云い、猶問われて自分とお浦と喧嘩した事も云った、唯、喧嘩の原因だけは、何と問われても云わず、単に「お認めに任せます」と云うたので、検査官は多分嫉妬の為だろうと云い、全く秀子を嫌疑者とするに足ると思い詰め、陪審員なども、殆ど最早此の上を詮索するに及ばぬとまで細語《ささや》いたと云う事だ。
秀子が退くと引き違えて余は呼び入れられたが、何と言い立てる思案もないから胸は波の様に起伏した、検査の室を指して行く間も、屠所に入る羊の想いも斯くやと自分で疑った、室の入口へ行くと中から森探偵と警察医とが何か細語つつ出て来るのに逢った、摺れ違い様、余は警察医の言葉の中に「三十位」と云う語の有ったのを一寸と小耳に挾んだ、「三十位」とは何の事だろう、此の一語が何の役に立とうとも思わなんだが、後になって見ると大変な事柄の元と為った、頓て検査官の前に立ち、式の通りに聖書を嘗めて「嘘は言いませぬ」との誓いを立てたが、検査官は第一に此の死骸を誰と思うとの事を聞いた、余も前の幾証人の通り「浦原浦子と思います」と答えようとしたが、此の時忽ち「三十位」の一語を思い出し、少し躊躇して、「能く見た上でなければ誰とも答える事が出来ません」と少し捻くった答をした、幾等熟く見たとて何の甲斐もないには極って居るけれど「お浦の死骸だ」と答えるのは殆ど「秀子が殺しました」と答えると同じ様に検査官や陪審員に聞こえはせぬかと思い如何にも心苦しい、一寸でも其の答えを伸したい、検査官は尤と云う風で「では篤と見るが好い」と云われた、余「何れほど検めても差し支えは有りませんか」と問い「ない」との返事を得た上で余はお浦の死骸を、手から足から、充分に調べたが、読者よ、余は実に此の暗澹たる事件をして更
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