時計が、一種無類の音を発して時の数を打ち始めた、何故だか知らぬけれど、高輪田は、此の音に、震い上る程に驚き、歩み掛けた足をも止め「ア十二時か知らん」と殆ど我知らずの様に呟いて其の数を指で算《かぞ》え始めた、十二時が何故恐ろしいか、彼の顔は全く色を失い、幽霊にでも出会ったと云う様に戦いて居る、頓て時計は十一だけ打って止んだ「アア十一時か」と彼はホッと安心の息を吐き、初めて自分の異様な振舞いに気が附いた様子で「此の時計は巻き方に秘密が有るとの事で、養母お紺が生存中は誰にも巻かせませんでした。此の音を聞くと其の頃のことを思い出して、私は何だか神経が昂ぶります」と云うた、併し此の言い開き丈では何故特に十二時を恐れて、十一時と知って安心したかを証明するに足らぬ、お浦は気にも留めずに振り向いて「少し舞踏でもすれば直ぐに神経は強くなりますよ、サア行きましょう」と高輪田を引っ立てて舞踏室へ這入った、余は兎に角も秀子の様子を見届けねば成らぬと思いお浦の姿の見えなくなるを待って、多分秀子が潜んで居るだろうと思う盆栽室へ、密《そっ》と行った、茲でも矢っ張り容易ならぬ事に出会《でっくわ》した。

第二十二回 盆栽の蔭

 盆栽室は中に様々の仕切などが有って、密話密談には極々都合の好い所だ、舞踏室で舞踏が進む丈益々此の室へ休息に来る人が多くなる、中には茲で縁談の緒《いと》口を開く紳士も有ろう、情人と細語《ささめごと》する婦人もないとは限らぬ、併し余が秀子を尋ねて此の室へ入った頃は猶だ舞踏が始まったばかりの所ゆえ誰も来て居ぬ、隈なく尋ねて見たけれど、確かに茲へ来た様に思われる秀子さえも来ては居ぬ、扨は猶だ舞踏室にマゴマゴして居て若しやお浦に捕まったのでは有るまいかと、更に舞踏室へ引き返して見たが、茲にも確か秀子は居ないで、只お浦が余の叔父に向って彼の高輪田を紹介して頻りと何事をか語って居る、多分は叔父に秀子の居所を聞き、連れて行って逢わせて呉れと迫って居るので有ろう。兎も角秀子の姿が見えぬ丈は先ず安心だ、何でも秀子はお浦を避けて自分の室へでも隠れたので有ろう、爾ならば余も強いて秀子に逢わねば成らぬと云う事はない、再び盆栽室へ退いて、植木の香気に精神を養うて爾して篤と秀子の事を考えて見よう、真に今夜の様な時は、何の様な事件が起ろうも知れぬから咄嗟の間に好い分別の出る様に余ほど心を爽かにして置かね
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