い》で、生きた人間の顔としては余り規則が正し過ぎる。三十二相極めて行儀好く揃って居る。若しや此の女は何か護謨《ごむ》ででも拵え屈伸自在な仮面を被《かぶ》って居るのでは無かろうか、併し其の様な巧みな仮面は未だ発明されたと云う事を聞かぬ。愈々之が仮面で無くて本統の素顔とすれば絶世の美人である、余は自分の女房にと叔父や当人から推し附けられ、断り兼ねて居る女は有るけれど、断然其の女を捨てて此の女に取り替えねばならぬ、と殆ど是ほどまでに思った。真逆《まさか》に此の天女の様な美人が今まで主人無しに居る筈も無く、縦《よ》しや居たとてそう容易《たやす》く余に靡《なび》く筈は無く、思えば余の心は余り軽率過ぎたなれど、此の時は全く此の様にまで思った、夫だから此の美人の顔が仮面で有るか素顔で有るか、物を云う時には看《み》破らんと、熱心に目を光らせて待って居ると、美人は少し余の様子を頓狂に思ったか笑みを浮べて、
「ハイ今し方、此の時計を捲いたのは私ですよ」
 仮面で無い、仮面で無い、本統の素顔、素顔。

第三回 左の手

 此の美人は何者だろう、第一、此の荒れ果てた塔の中に、而も輪田お紺の幽霊が出ると云われる室の中に、丁度其のお紺の寝たと云う寝台の上に、唯一人で居たのが怪しい、第二には此の世に知った人の無い秘密、即ち時計の捲き方を知って居るのが怪しい、第三に、故《わざ》々其の時計を捲いたのが怪しい、余は初めに其の顔の美しさに感心し、外の事は心にも浮かばずに居たが、追々斯様な怪しさが浮かんで来た、猶此の外に怪しい箇条が有るかも知れぬ、怪しんで暫し茫然として居ると、塔の時計が鳴った、数えると七時である、自分の時計を出して眺めると如何にも七時だ、美人は余の怪訝な顔を見て、可笑しいのか「ホ、ホ」と笑み「塔の時計の合って居るのが不思議ですか」と余を揶揄《からか》う様に云った、其の笑顔の美しさ、全体此の様な辺鄙な土地へ是ほどの美人が来て居るのさえ怪しいと云う可しだ。
「貴女は全体何者です」と余は問い度《た》くて成らぬが、美人の優れた顔と姿とを見ては其の様な無躾な問いは出ぬ、咽喉の中で消えて仕舞う、総《すべ》ての様子総ての振舞が何と無く世の常の女より立ち勝り、世に云う水際が離れて居るから、余は我にもあらで躊躇して、唯|纔《わずか》に「貴女は何故に塔の時計をお捲き成されました」と問うた、美人「ハイ多分斯う
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