ん》未満で有った為一等を減じて終身の禁錮《きんこ》になり、四年ほど牢の中に苦しんで終に病死した、其の女の名は確かお夏――爾だ輪田お夏と云った。
余は此の忌わしい話を思い出し、少し気が怯《ひるん》だけれど、素より幽霊などの此の世に在る事を信せず、殊には腕力も常人には勝れ、今まで力自慢で友人などにも褒められて来た程だから「ナアニ平気な者サ」と故《わざ》と口で平気を唱え、階段を登り始めた。
登り登りて四階まで行くと、茲が即ち老女輪田お紺の殺された室だ。伝説に由ると室の一方に寝台が有って、其の上からお紺が口に人の肉を咬え顋《あご》へ血を垂らしてソロソロ降りて来ると云う事だ、何分にも薄暗いから、先ず窓の盲戸を推開《おしあ》けたが、錆附いて居て好くは開かぬ。夫に最も夕刻だから大した明りは射さぬ。何処に其の寝台が有るか、此の上の時計の裏へは何して登られるかと、静かに透す様にして室の中を見て居ると、一方の隅で、人の着物を引き摺る様な音がする、其の中に眼も幾分か暗さに慣れたか、其の音の方に当り薄々と寝台の様な物も見える。
すると其の寝台の上に、何だか人の姿が有って起き直る有様が殆ど伝説の通りで在る、此の様な時には暗いのが何より不利益(幽霊にとっては利益かも知らぬが)だから余は窓の方へ寄り、最《もう》一度|盲戸《めくらど》を今度は力一杯に推して見た、未だ盲戸は仲々開かぬに、怪しい姿はソロソロと寝台を下り、余の傍へ寄って来るが併し足音のする所を見ると幽霊では無さ相だ、けれど幽霊よりも却って薄気味が悪い。余は猶も力を込めて戸を推したが、メリメリと蝶番《ちょうつがい》が毀れて戸は下の屋根へ落ち、室の中が一時に明るく成った、とは云え夕明りで有るから昼間ほどには行かぬが幽霊の正体を見届けるには充分で有る。
「能く其の戸が脱《はず》れましたよ、私しも開け度いと思い、推して見ましたけれど女の力には合いませんでしたが」
之が幽霊の発した初めての声で音楽の様に麗しい、余は荒々しく問い詰める積りで居たが、声の麗しさに、聊《いささ》か気抜けがして柔《やさ》しくなり、「今し方、大時計の針を動したのは貴女でしたか」
と、問いつつ熟々《つくづく》其の姿を見ると、顔は声よりも猶麗しい、姿も婀娜《なよなよ》として貴婦人の様子が有る、若し厳重に批評すれば其の美しさは舞楽に用ゆる天女の仮面と云う様な塩梅《あんば
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