室で書き置きでも認めて居るだろうか、最早此の上を聞く必要は無い、余は直ちに馬に飛び乗り、殆ど弾丸の早さを以て幽霊塔に帰った、聊か思う仔細があるから、塔の室へ上る前に先ず下僕に向かい「高輪田長三は何うした」と聞いた、下僕「アノ方は先日から心臓病が起こったとて御自分の室に寝て居ます」余「彼は今朝己が此の家へ帰った事を知って居るだろうか」下僕「イヤ知って居る筈は有りません」余「知らねば夫で宜いから、決して知らさぬ様にして置け」
 心臓病で寝て居るなら猶当分は此の家に居るだろう、何しろ彼の身が今は万事の中心と為って居る有様ゆえ、取り逃がさぬ工風をせねばならぬ、彼未だ余が彼の罪悪を看破した事に気が附かぬ故、猶も此の家に踏み留って悪事を続ける積りに違い無い、逃げ去る恐れは万々《ばんばん》ないけれど、余の帰った事を知らざるに如くは無いと、余は此の様な考えで、下僕に前の通り差し図したが、彼が余の帰ったと知らぬ為に又恐ろしい一場の悲劇を演じ出そうとは神ならぬ余の思い得ぬ所であった。
 余は其の足で直ぐに塔の上の余の室へ上って行った、茲に秀子が居るか知らんと思ったは空頼みで、秀子は影も形も無い、けれど小僧の云った通り茲に居たのは確かである、余の机に倚りて何か書き認めた者と見え、筆の先が新たな墨色を帯びて居る、爾して一方には絹の手巾が有る、秀子の常に用うる香水の匂いで秀子の品と分る、取り上げて見れば是も猶湿った儘であるが、此の湿りは何であろう、問うまでも無く涙である。泣きながら何事をか書いたとすれば、愈々書き置きらしく思われるが、其の書き置きは何所へ置いたで有ろうと、余は余ほど捜したけれど見当らぬ。捜し盡くして再び卓子の所へ返ると卓子の片端に大きな一冊の本が表紙だけ開いてある、見れば余が初めて叔父と共に此の塔へ来た時に此の室で見出した祖先伝来の彼の聖書で、其の表紙の裏に在る咒文が出て居る「明珠百斛、王錫嘉福、妖※[#「※」は「かみがしらの下に几」、読みは「こん」、182−上21]偸奪、夜水竜哭」云々の文句は余が今も猶記憶して居る通りで有る、特に此の咒語を茲へ開いて於てあるのは、何かの謎で、秀子が余に悟らせんとの為で有るまいかと此の様に思うに連れ益々気遣わしい、若しや秀子は、此の家の先祖が落ち込んで再び出る事の出来ずして其の死骸さえ現われぬと云う此の幽霊塔の底へ身を投げたではあるまいか、其
前へ 次へ
全267ページ中222ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
黒岩 涙香 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング