たとて其の甲斐はない。最早落胆せざらんと欲するも得ずだ。其のうちに愈々夜に入った、万感|交々《こもごも》胸に迫るとは此の様な場合を云うだろうか。勿論腹は益々空く一方だが、寒さも追々に強く感ずる、何しろ腹に応えがなくては寒さを凌ぐ力もないと見える。最う煖炉を焚かずには居られぬ、丈夫な余さえも此の通りだから彼の白痴は猶更耐え難いだろうと思い、再び煖炉を焚き附けて次の室へ行き、残り少ない燐燧を奢って見廻すと白痴は居ぬ、扨は何所か出て行く所があるだろうかと二本目の燐燧を擦った。心細い事には最う後に三本しか残って居ぬ。
第六十一回 余の身代り
何処に出口が有って彼の白痴は居なく成ったか。二度目の燐燧《まっち》で照らし見ると、居なくなったのではなく、余の寝た寝台の上に寝て居るのだ、此の様な境遇を爾まで辛くも思わぬ、其の眠りの安々と心地好げに見ゆることは、ホンに羨ましいと云っても宜い。余は寧っそ白痴に生まれたなら、苦痛を苦痛とも感ぜぬだけ却って仕合せで有ったかも知れぬが、今更それ愚痴に過ぎない。
斯う旨々と眠て居る者を、起すのも罪だから其のまま余は煖炉の前にかえり燃える火を眺めて居たが、余ほど身体が疲れたと見え、椅子に凭《よ》ったまま居眠った。幾時の後にか目が覚めて見ると煖炉が全く消えて、室の中は昨夜の様な暗闇と為り、寒さは宛かも背中から水を浴びせられる様だ。暁方まで何うして凌ごうかと思って居るうち、何所からか此の暗闇の室へ散らりと燈光が射した。熟く見ると、庭に向った方の窓の戸の隙から洩れて来るのだ、最う何時か知らぬけれど此の夜更に誰が何の為に庭へ出て居るだろうと窓の所へ行き、鉄の棒に顔を当て戸の隙の最も大きい所から窺いて見るとズッと向うの樹の下に燈りを持って居るのは婆で、其の燈光をたよりに彼の医学士が鍬を以って大きな穴を掘って居る。
是だ、是だ、穴を掘って死骸を埋めるとは、此の事だ、ハテな今夜は誰を埋めるのだろう、考える迄もない。余を埋める積りなのだ。医学士の言葉では余が空腹の為疲れるのを待ち、爾して取って押えると云う事で有ったから四五日は間があるかと思ったが、何かそう長く待たれぬ事情でも出来たのか、夫とも余が既に疲れて了ったと見込んだのか、ナアニ、未だ中々彼等の手に取り拉れる男ではない。来るならば来て見るが好いと、腹立たしさと共に俄かに勇気が出、身を引き緊めて瞰て居
前へ
次へ
全267ページ中137ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
黒岩 涙香 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング