、爾して此の後は何の様な事を聞くかと、動悸が胸を張り裂く様に打った。婆「誰だったか忘れたよ」医学士「虎井夫人で有ったじゃないか」婆「爾だ、爾だ、娘だった、オオ最う何も彼も思いだした、爾してお前が、第一に仮面を被せねば了けぬと云って」医学士「エエ、思い出す時には余計な事まで思い出す、其の様な事は忘れて居るが好い」婆「爾して私が、其の美人の左の手を見ると、ネエ医学士、其の時には私の智恵が一同から褒められたじゃないか、アノ左の手にさ、エ医学士、お前は忘れなさったか」扨は愈々秀子が身の秘密まで今此の悪人等の口より聞くかと、余は凝り固まって我れ知らず身動きしたが、自分では何の響をさせたとも知らぬけれど、中に居る例の犬が早くも聞き附けたと見え、異様に警報を伝える様に一声吠えた、医学士「オヤ此の犬が吠えるとは奇妙だぞ、婆さん、お前の耳には、何か聞こえたか」婆「イイエ」医学士「真逆に戸の外で誰も聞いて居る訳でもあるまいが」と云って早や立って来る様子である。
第五十四回 人だか獣物だか
余は実に失敗《しくじ》ったと思った。医学士が立って来れば余は暗がりへ隠れる一方だが、それも硝燈を持って来らるればそれ迄だ。折角茲まで漕ぎ附けたのに肝腎の時と為って見現わされるのかと、本統に遺憾骨髄に徹したけれど仕方がない。所が中で婆の声が聞こえた。「ナニ誰が居る者かよ、甚蔵が傍に居ないと此の犬は時々アノ様な声を出すのだよ、上の室でアレの動く音でも聞こえたのだろう」アレとは何であろうと余は此の際疾《きわど》い場合にも怪しむのを耐え得ぬ、医学士「ウム例のか、動きなど仕やがって、仕ようがないなア、最っと鉄鎖を緊《きつ》くして置くが宜い」斯う言って、出て来るのを止めた様子だ、有難い、有難い、余は真に助かった、再び此の様な事のない中に早く目的の潜戸の中へ潜り込まねば。
斯う思ううちにも「例のか」と言い「鉄鎖を緊く」など云った医学士の言葉が耳に残って居る。何だか薄気味の悪い言葉だ、併し此の意味も其のうちには分るだろうと、跼《ぬ》き足して此所を立ち去り、見て置いた階段の方へ行ったが、四辺は全くの闇である。別に躓く物も有るまいとは思うけれど手探りに進む外はない、昼間は明るかった所為か斯う広いとは思わなんだが、探って行くと階段まで仲々遠いけれど、何うか斯うか無事に着いた。
又手探りと跼き足で階段を上って行き、
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