ワ」愈々虎井夫人も此の婆の娘で、甚蔵の姉か妹である事が分る、丁度似た年頃で何方が上だか分らぬが、虎井夫人の方が姉だろう、女は八十に成っても矢張り若く見られたがって、若作りをする者だから、男と同じ年頃に見えるなら必ず女の方が年上だ。婆は諄《くど》くも「でもお前さんは甚蔵は美人に逢いに行ったと云うたじゃないか。美人とは何所の美人だエ」医学士「本統に呆れて了うなア、何れ思い出させて遣ろう、昔大雨大風の晩に、此の家へ馬車が着いただろう」婆「ウム馬車か」医学士「中から先ず馭者が出てよ、毛皮の襟を外して顔を出すと唯の馭者ではなくてよ」婆「オオ、爾々、馭者ではなくてお前だった」医学士「ソレ覚えて居るではないか、己だって、此の事件の為には馭者までも勤めて骨を折って居るのだから、茲まで漕ぎ附けて旨く行かねば間職に合う者か、爾して其の馬車の中から続いて出たのは誰で有った」婆「分かったよ、分ったよ、美人だったよ、爾だ先刻も其の事を誰かに話したのに最う忘れて居た」医学士「エ、エ、彼の事を人に話した、此の様な大秘密を仕様がないなア、夫だからお前に留守はさせられぬと己が常に甚蔵に言い附けて置くのだ、何処へ行って誰に何の様な事を饒舌るかも知れぬ、此の耄碌婆め、お前は甚蔵の留守に外へでも出て行ったのか」婆「ナニ出ては行かぬ門の戸まで甚蔵が例の通り閉めて行ったから」医学士「それでは誰に話しただろう」婆「忘れたよ」医学士「忘れたよもない者だ、ハテな、真逆に甚蔵を乗せて来た馬車の馬丁にでもあるまいネ」婆「アそう、そう、思い出した、甚蔵を送って来た美しい若者に話したんだ」医学士「ア途中で己を呼び掛けたアノ男にか、ハテな、彼奴真逆に探偵では有るまい、通例の商人なら、少しぐらい聞いたとて唯聞き流す丈の事だが、爾して何かコレ婆さん、其の男は根掘り葉掘り色々の事を聞きはせなんだか」婆「忘れたよ」
 忘れたは余に取って幸いである。若し覚え居て有の儘を話したら、悪に鋭い此の医学士は決して余を尋常《ただ》の若者とは思いは仕まい。医学士「エエ、好いわ、誰の目にも狂人と分り過ぎるほど分って居るお前だもの、何を云ったって人が真逆に気に留めもせぬだろう」と自ら慰める様に云い、良《やや》あって「所で婆さん、初めの話に帰るのだが、其の美人は誰が抱いて出たえ、馬車の中から」
 是が秀子の過ぎし身の事かと思えば、余の身体は石の様になり
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