鋭い神経で、余の心が他の女に移る緒口《いとぐち》だと見たのでも有ろう、唯機嫌の好いのは余一人だ、三人三色の心持で、卓子《ていぶる》に附いて居ると、松谷秀子は、真に美人で無くては歩み得ぬ娜々《なよなよ》とした歩み振りで遣って来た、後に随いて来る其の連れは、余り貴婦人らしく無い下品な顔附きの女で年は四十八九だろう、成るほど非常に能く育った大きな狐猿を引き連れて居る、美人は第一に余に会釈し後に居る下品な女を目で指して、「是は私の連れです、虎井夫人と申します」と引き合わせた、苗字からして下品では無いか、併し其の様な批評は後にし、余は直ぐ様叔父に向い、美人を指して「是が松谷令嬢です」と引き合わせたが、叔父は立ち上って美人の顔を見るよりも、何の故か甚く打ち驚き、見る見る顔色を変えて仕舞ったが、頓《やが》て心まで顛倒したか、気絶の体で椅子の傍辺へ打ち仆《たお》れた。

第六回 異様な飾りの附いた手袋

 幾等驚いたにもせよ、余の叔父が男の癖に気絶するとは余り意気地の無い話だ、併し叔父の事情を知る者は無理と思わぬ、叔父は仲々不幸の身の上で近年甚く神経が昂ぶって居る、其の抑《そもそ》もの元はと云えば今より二十余年前に、双方少しの誤解から細君と不和を起し、嵩じ/\た果が細君は生まれて間も無い一人娘を抱いたまま家を出て米国へ出奔した、叔父は驚いて追い駆けて行ったが彼地へ着くと悲しや火事の為其の細君の居る宿屋が焼け細君も娘も焼け死んで、他の焼死人の骨と共に早や共同墓地へ葬られた後で有った、是は有名な事件で新聞紙などは焼死人一同の供養の為に義捐まで募った程で有ったが、叔父は共同墓地を発《ひら》き混雑した骨の中の幾片を拾い、此の国へ持ち帰って改めて埋葬したけれど、其の当座は宛で狂人の様で有ったと云う事だ、其のとき既に辞職を思い立ったけれど間も無く検事総長に成れると極って居る身ゆえ、同僚に忠告され辞職は思い留ったけれど、其の時から自分が罪人に直接すると云う事はせず唯書類に拠って他の検事に差図する丈で有った、是より後は兎角神経が鎮らず、偶には女の様に気絶する事も有り愈々昨年に至り斯う神経の穏かならぬ身では迚《とて》も此の職は務らぬとて官職を辞したのだ。
 此の様な人だから今夜も気絶したのだろう、兎に角余は驚いて抱き起こした、卓子の上の皿なども一二枚は落ちた、余は抱き起しつつ「水を、水を」と叫んだが
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