出ると言い伝えられて居る室を、私の居間にするとは其の訳を聞いた上で無ければ私もお約束は出来ません」美人「イヤ私は自分では神聖と思う程の或る密旨《みっし》を持って居るのですから、其の密旨を達した上で無ければ何事も貴方へ説明する事は出来ませんが――」密旨、密旨、今時に密旨などとは余り聞いた事も無い。併し此の美人のする事を見れば、如何にも密旨でも帯びて居そうだ、密旨、密命に使われて居るので無ければ、人の殺された寝台に寝たり、養母殺しの墓へ参詣したり其の様な振舞はせぬ筈だ、余「其の密旨とは人から頼まれたのですか」美人「イイエ、自分から心に誓い、何うしても果さねば成らぬ者と決して居るのです、是だけ打ち明けるさえ実は打ち明け過ぎるのですけれど、貴方は正直な方と見えますから打ち明けるのです」余「夫だけの打ち明け方では未だ足りません、約束は出来ません」美人「イエ、何も貴方の身に害になる事では無く、あの室を居間にさえ為されば必ず私に謝する時が有りますよ」外の人の言葉なら余は決して応ずる所で無いが、此の美人の言葉には、イヤ言葉のみで無い目にも顔にも何となく抵抗し難い所が有る、此の異様な請に応ずれば、其の中には此の美人の密旨の性質も分る時が来よう、幽霊の出る室へ寝るも亦一興と、多寡《たか》を括って「では約束します、あの室を居室と仕ましょう」美人「爾成されば、昔から那の家に伝って居る咒文が手に入りますから、其の咒文を暗誦して、能く其の意味をお考え成さい、必ず貴方に幸福が湧いて来ますよ」密使の繧ノ咒文などとは、文明の世には聞いた事も無い言葉だ、余「其の咒文を暗誦すれば妖術を使う事でも出来ますか」美人「妖術よりも勝った力が出て来ます」余「其の様な力が今の世に有りましょうか」美人「有るか無いか、夫も分る時には分ります」
 何所までも人を蠱惑《こわく》する様な言い方では有るが、余は兎も角も其の言葉に従って怪美人の密旨をまで見究めようと思ったから、言いなりに成って夫から叔父の所へ帰り美人が一人の連れと共に晩餐の招きに応ずる旨を述べた、尤も此の美人の素性は語らず、単に余の知人で松谷秀子と云うのだと是だけを叔父には告げて置いた、叔父は直ちに別室を借り、之へ食事の用意を為さしめ、用意の整うと共に給使を遣って松谷秀子を招かせた、叔父は例の通り陰気に物静かだが、余の許嫁《いいなずけ》お浦は益々不機嫌だ、日頃の
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