変な事を成されました、アノ手帳が蜘蛛屋の手へ這入っては」余「イヤ夫ほど大変なら私が其の蜘蛛屋へ行って――爾々主人の名を穴川甚蔵と書いた事も覚えて居ますから其の穴川に逢うて取り返して参ります」秀子「飛んでもない事を仰有る、アノ家へ入らっしゃれば毒蜘蛛に喰い殺されます、蜘蛛の糸に巻かれ身動きも出来ぬ様になり、迚も活きては返られません」今の文明の世に、昔の怪談めきたる毒蜘蛛を養いて人を其の糸に巻き殺させるなどと云う事が有るだろうか、秀子は思い出しても恐ろしいと云う様に、言葉と共に身震いをした。

第三十五回 身の毛が逆立つよ

 養蟲園とは真に蜘蛛を養う所であろうか、蜘蛛屋とは聞いた事もない商売柄だ、爾して人を大きな蜘蛛に与えて其の糸で巻かせて了うだろうか、余は秀子が恐ろしげに身震いする様を見て思わずゾッと全身を寒くした、猛き虎に出合ってさえ泰然自若として其の難を逃れた秀子が、話にさえ身を震わす程だから、余ほど恐ろしい所に違いない、とは云え昔の怪談では有るまいし今の世に人間を喰うほどの大きな蜘蛛が有る筈はない、猛獣や毒蛇ばかり跋扈《ばっこ》して居る大の野蛮国なら知らぬ事、文明の絶頂に達した此の英国に、何で秀子の云う様な毒蜘蛛が居る者かと、少しの間に思い直しは直したけれど、余は何うも其の養蟲園へ行って見たい、秀子の手帳を取返し得るや否やは扨置いて、毒蜘蛛の糸に巻かれ身動きも出来ないで喰い殺されると秀子の形容する其の実際の有様を見究め度い、併し今の此の身体では仕方がない、是ならば大丈夫と医師から許しを得る様になれば余は必ず行って見よう。
 併し之よりも差し当り余が不審に思うのは虎井夫人と秀子との間柄だ、問うは今だと思い「ですが秀子さん、虎井夫人は貴女の附添人であるのに貴女の手帳を盗むとは余り甚いでは有りませんか」秀子「ハイ私の附添人ですけれど少しも気の許されぬ人ですよ、身体の健康な時には色々の事を目論見《もくろみ》まして、幾度私と喧嘩するかも知れません」勿論余は秀子と虎井夫人と意見の衝突する場合の有るのを知って居る、初めて此の土地の宿屋に泊った夜なども、既に記した通り夫人と秀子とが甚く争って居るのを聞いた、だから秀子の此の言葉は少しも偽りのない所であろう、けれど夫ならば何故に暇を遣らぬのであろう、余「其れほど気の許されぬ方なら何故雇うてお置き成さる」秀子「私が雇うて置くという
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