の室へお寝《やす》み成さい、当分私が此の室へ寝る事に致しましょう」熱心も勇気も実に感心する外はない、余は断乎として「イエ其の御心配に及びません、是から一晩でも欠さずに私が茲へ寝ますよ、爾して昼間でも決して此の塔へ他人を上らせぬ事にします」と答えたが、後で落ち着いて考えて見ると真逆に此の古塔に盗人が目を附けるほどの値打も有るまいと思われる。
第二十八回 中の品物は何
盗人が幽霊の真似をするとは全く例のない事ではない、余は誰かの話に聞いた、併し実際|出会《でっくわ》したは初めてだ。
夫にしても其の盗坊は誰であろう、昨夜此の家へ泊った客は随分あるけれど、それは皆紳士貴婦人とも云う可きで、仲には品行の宜しくない人も有りは仕ようが、真逆に盗坊をする様な人はない、爾すれば此の盗坊は外から這入ったので有ろうか、イヤ其の様な形跡も見えぬ、実に不思議千万な事だ、余は猶も秀子に向い「若しも心当りはないのか」と繰り返して問うたが、秀子の様子では何だか腹の中で誰かを疑って居るらしい、けれど口には発せぬ、口では唯、少しも心当りがないと云って居る。
此の後余は秀子へ約束した通り、誰をも塔の上へ揚げぬ事にし、自分は番人に成った積りで成る可く此の室を離れぬ様に勉めた、其の為再び幽霊らしい者は出なんだ。
併し幽霊の出るよりも猶厭な猶恐ろしい事は沢山あった、先ず順を追って話して行こう。
此の日の夕暮、余は日頃見知らぬ一紳士が此の家へ這入って来るのを見た、取り次の者に聞いて見ると此の土地の医者だと云う事、成るほど後には多少懇意に成ったが全くの医者であった、何の為に迎えられたと問えば、秀子の附添人虎井夫人が病気だと云う事だ、そう聞けば昼飯の席へも虎井夫人は見えなんだ。晩餐の時に至り夫人は出て来たが顔の色が何となく引き立たぬ、余は其の傍に行き「御病気だと聞きましたが、如何です」と問うた、夫人は少し怪しむ様に余の顔を見て「病気だなどと誰が、云いました」余「でも先ほど此の村の医師が来たでは有りませんか」夫人「そう知れては仕方が有りません、余り極りの悪い話で、誰にも隠して居ましたが、病気ではなく怪我ですよ、アノ狐猿に甚く手先を引っ掻れました。自分の飼って居る者に傷つけられるとは年甲斐もなく余り不注意ですから」余「併し相手が是非の弁《わきまえ》もない獣類で有って見れば、引っ掻れたとて別に恥じる事も有り
前へ
次へ
全267ページ中65ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
黒岩 涙香 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング