い白い枕の上へ、二三点血が落ちて居る、此の血は余が起きてから今まで僅か五分とも経たぬ間に落ちたのに違いない、猶能く見れば、褥《しとね》の上にも二三点、云わば雨滴が落ちたかと云う様な形になって居る、余は又も自分の目を疑ったが何う見直しても血の痕だ、何所から落ちた、天井からか、画板からか、押入れからか、天井は此の室と上の時計室との間から、人ならば匍匐《はっ》て這入れる様に成って居るから或いは誰か這入ったかも知れぬ、併し下から見た所では天井に血の浸《しみ》はない、多分は画板の間からでも、迸《ほとばし》ったので有ろう、と斯うは思っても真逆に血の落ちて居る寝床の上へ寝る訳にも行かぬ、或いは虎井夫人の連れて居る例の狐猿が壁の間か何処かで鼠でも捕ったのかと、此の様に思ったけれど狐猿が溜息を吐くなどは余り聞いた事がない。
第二十六回 愈々分らぬ
雨滴《あまだれ》の様に幾点か落ちて居る血を手巾《はんけち》で拭っては見たが、真逆に其の寝床へ再び寝るほどの勇気は出ぬ、斯うも臆病とは余り情けないと自分の身を叱って見たけれど、縦し無理に寝た所で迚も眠れはせぬだろうと思い直し、到頭其のまま起きて了った。
爾して廊下へ出、窓を開くと最う夜が明け掛けて居る、何者の血で有るか、真にお紺婆の幽霊が出たのか、篤《とく》と調べては見たいけれど、神経の静かならぬ此の様な時に調べたとて我と我が心に欺かれる計りだから少し早過ぎるけれど外へ出て、充分に運動して其の上の事よと思い、余り音のせぬ様に階下へ降り、庭に出て、夫から堀の辺まで散歩した、堀の岸には舟小屋が有って、未だ誰も乗った事のない、新しい小舟が有る、之を卸して進水式を遣らかすも妙だろうと、独りで曳《えい》やッと引き卸し、朝風の冷々するにも構わず楫《かい》を両手に取って堀の中を漕ぎ廻した、其のうち凡そ一時間の余も経ったであろうか、身体は汗肌と為って気も爽やかに、幽霊の事も忘れる程に成った、最う好かろうと舟を繋いで土堤へ上って見ると、目に附くは例の殺人女夏子の墓だ、墓の前に又詣で居る人が有る。
誰ぞと怪しむ迄もなく其の姿の優《しなや》かなのと着物の日影色とで分って居る、無論秀子だ、何の為に秀子が此の墓へ参るかは兼ねて不思議の一つだが、而も未だ誰も起きぬ中に参るとは成る可く此の参詣を人に知らさぬ為で有ろう、爾すれば余も知らぬ顔で居るが好いと其のまま立
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