其の平気な静かな所に一種の凄味が有るから妙だ、余は此の時高輪田の顔をも見た、彼は同様な心を以て秀子の顔を見て居るだろう。
彼の顔は前にも云った通り、男としては珍しいほど滑らかで、余り波瀾の現われぬ質では有るがそれでも初めて秀子の顔を見た時には確かに彼の顔に一種の悪意が浮動した、何でも彼は兼ねてお浦から、此の秀子は古山お酉に違いないと云われて、全くお酉に逢う事とのみ思い詰め、己れ面の皮を引剥いて遣ろうと楽しんで遣って来たに違いない、爾なくば顔に斯う悪意の浮動する筈がない、所が彼は一目見て痛く驚いた、悪意は消えて寧ろ恐れと云う様な色になった、何でも人違いと覚ったが為らしい、併し彼仲々根強い気質と見え、怯《ひる》み掛けて又思い直した様子で、一層眼に力を込めて再び秀子の顔を見詰めた、此の時の彼の目は実に鋭い、非常な熱心が籠って居る、若し眼の光がX光線の様に物の内部まで入り込む事が出来る者なら、此の時の彼の眼光は確かに秀子の腹の中を透かして背中まで貫徹《ぬけとお》ったで有ろう、けれども彼は終に満足の様子を示さぬ。
余も心配だが、余よりもお浦に至っては殆ど必死だ、高輪田よりも猶一層眼を輝かせる、と云う事は到底人間の目には出来ぬけれど、若し出来る者とすれば、必ず高輪田よりも猶強く輝かせる所で有ろう、余の叔父も何だか対面の様子が変だから少し怪しみ掛けたのか怪訝な顔をして居る、中で一番平気、一番何ともない様なのは秀子だ、秀子は最早高輪田が充分顔を見盡くしたかと思う頃、静かに口を開き「私は何も合点が行きませぬ、私の昔の友達と仰有った様に思いますが、幾等考えても分りません、多分私がお見忘れ申したのでしょう、失礼ですが何処でお目に掛りましたかネエ」とあどけなく問うた、高輪田は何と返事する言葉さえ知らぬ様子だ「左様です、私も、何うも、イヤ何とも、考えが附きません」秀子「夫に私は高輪田さんと仰有る御苗字さえ今聞くが初めての様に思いますが」
余は全くホッと息した、秀子は此の恐ろしい試験、イヤ当人は恐ろしくも有るまいが、余の心には非常に恐ろしく感じた、此の大試験も苦もなく通り越したと云う者だ、お浦の疑う様な仲働きでない、古山お酉でない、姿を変えて人を欺く女詐偽師ではない、幽霊塔の前の持主たる高輪田長三さえ見た事のない全くの松谷秀子だ、米国で政治家の秘書を勤めて居た事も確か立派な書籍を著わした
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