、第3水準1−84−17]《そ》は足手纏いなりとて聞入るゝ様子なければ詮方《せんかた》なく寧児を残す事とし母にも告げず仕度を為し翌日二人にて長崎より舩《ふね》に乗りたり後にて聞けば金起は出足《であし》に臨《のぞ》み兄の金を千円近く盗み来たりしとの事なり頓《やが》て神戸に上陸し一年余り遊び暮すうち、金起の懐中も残り少くなりたれば今のうち東京に往き相応の商売を初めんと又も神戸を去り東京に上り来たるが当時築地に支那人の開ける博奕宿あり金起は日頃|嗜《たしな》める道とて直《ただち》に其宿に入込みしも運悪くして僅に残れる金子《きんす》さえ忽ち失い尽したれば如何に相談せしか金起は妾を其宿の下女に住込ませ己れは「七八《チーパー》」の小使に雇れたり此後一年を経て明治二十年の春となり妾も金起も築地に住い難きこと出来たり其|因由《わけ》は他ならず彼の金起の兄なる陳施寧|商業《しょうばい》の都合にて長崎を引払い東京に来りて築地に店を開きしと或人より聞たれば当分の中《うち》分れ/\に住む事とし妾は口を求めて本郷の或る下等料理屋へ住込み金起は横浜の博奕宿へ移りたり或日妾は一日の暇を得たれば久し振に金起の顔を見んと横浜より呼び寄せて共に手を引き此処彼処見物するうち浅草観音に入りたるに思いも掛けず見世物小屋の辺《ほと》りにて後より「お紺/\」と呼ぶものあり振向き見れば妾の母なり寧児も其傍にあり見違るほど成長したり「オヤ貴女は(母)お前は先《ま》ア私にも云わずに居無く成て夫切《それき》り便りが無いから何処へ行《いっ》たかと思ったら先《ま》ア東京へ先《ま》ア、而《そ》して先ア金起さんも先《ま》ア、寧児覚えて居るだろう是が毎《いつ》も云うお前のお母さんだよ、お父さんはお前を貰い子だと云う筈だ此れがお前の本統のお父さん、私は先ア前《さき》へ云わねば成らん事を忘れてサ、お紺や未だ知る舞《ま》いが用心せねば了《いけ》ないよ東京へ来たよ、親指が、私もアノ儘世話に成て居て此通り東京まで連《つれ》られて来たがの、今でもお前に大残りに残て居るよ未練がサ、親指は、お前が居無《いなく》なッた時|何《ど》の様に怒ッたゞろう、私まで叩き出すッて、チイ/\パア/\言たがネ、腹立《はらたっ》た時やア少《すこし》も分らんネ、言《いう》ことが、でも後で私しを世話して置けば早晩《いつか》お前が逢い度く成て帰ッて来るだろうッて、惚《のろ》い事は箝《わ》を掛てるネ日本人に爾《そう》して今は何所に、ア爾《そ》う本郷に奉公、ア爾う可愛相に、金起さんも一緒かえ、ア爾う金起さんは横浜に、ア爾う別々で逢う事も出来ない、ア爾う可愛相に、ア爾う親指の来た事を聞いて、ア爾う可愛相に用心の為め分れてか、ア爾う今日久ぶりに逢ッて、ア爾う可愛相に、夫《それ》ではお前斯うお仕な今夜はネ家へ来てお宿りな金起さんと二人で、ナニ浮雲《あぶな》い者か昨日横浜へ行て明後日で無ければ帰らんよイエ本統に恐い事が有る者かイエお泊りなお泊りよ若し何だアネ帰ッて来れば三人で裏口から馳出さアネ、ナニ寧児だッて大丈夫だよ、多舌《しゃべり》や仕無《しない》よ本統のお父さんとお母さんが泊るのだもの多舌するものか、ネエ寧児、此子の名前は日本人の様で呼び易くッて好い事ネ隣館《おとなり》の子は矢ッ張り合の子で珍竹林と云うのだよ可笑《おかし》いじゃ無いかネエ、だから私が一層の事寧次郎とするが好と云うんだよ、来てお泊りな裏から三人で逃出さアネ、イエ正直な所は私しも最う彼処《あすこ》に居るのは厭で/\成《なら》ないのお前達と一緒に逃げれば好かッた、アヽ時々|爾《そう》思うよ今でも連れて逃げて呉《くれ》れば好いと、イヽエ口《くち》には云《いわ》ぬけれど本統だよ、来てお泊りな、エ、お前今夜も明《あす》の晩も大丈夫、イエ月の中に二三度は家を開るよ横浜へ行てサ、其留守は何《どん》なに静で好だろう是からネ其様《そんな》時には逃《のが》さず手紙を遣るから来てお泊りよ、二階が広々として、エお出なネお出よお出なね、お出よう」母は独りで多舌立《しゃべりた》て放す気色も見えざる故、妾も金起もツイ其気になり此夜は大胆にも築地陳施寧の家に行き広々と二階に寐《い》ね次の夜も又泊り翌々日の朝に成り寧児には堅く口留して帰りたり此後も施寧の留守と為ること分るたびに必ず母より前日に妾の許へ知らせ来る故、妾は横浜より金起を迎え泊り掛けに行きたり、若し母と寧児さえ無くば妾《わらわ》斯《かゝ》る危き所へ足蹈もする筈なけれど妾の如き薄情の女にも母は懐しく児は愛らしゝ一ツは母の懐しさに引《ひか》され一ツは子の愛らしさに引されしなり、去れば其留守前日より分らずして金起を呼び迎える暇なき時は妾唯|一人《ひと》り行きたる事も有り明治二十年の秋頃よりして今年の春までに行きて泊りし事|凡《およ》そ十五度も有る程な
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