此通り成たとは悪い事は出来ぬ者です」目科は是だけ聞き「成るほど趣向は旨《うま》いけれど仕舞際《しまいぎわ》に成て其方の心が暗み大失策を遣《やらか》したから仕方が無い、其方は自分の右の手で直に老人の手を取たから老人の左の手であの文字を書せた事に成て居る」此評を聞き生田は驚きて飛上り「何と仰有《おっしゃ》る、だッて夫が為に私しへ疑いの掛ッた訳では有ますまい目「夫が為に掛ッたのさ、左の手だから老人が自分で書たので無いのは明白で、既に曲者が書たとすれば藻西太郎が自分で自分の名を書附ける筈は無いから」生田は宛《あたか》も伯楽《はくらく》の見|落《おとさ》れたる千里の馬の如く呆れて其顔を長くしつ「是は驚た、あゝ美術心が有ても駄目だ、余り旨く遣過《やりすぎ》ても無益の事だ、貴方は猶《ま》だあの老人が左得手《ひだりえて》で、筆を持つまで左の手だと云う事を御存じないと見えますな」あゝ/\扨《さて》は彼の老人左きゝにして曲者の落度と見しは却《かえっ》て其手際なりしか、目科の細君が最《いと》賢き説を立てながらも其説の当らざりしは無理に非ず、後に至りて聞糺《きゝたゞ》せしに老人は全く左|利《きゝ》なりしに相違なし、左《さ》すれば余が自ら大発見大手柄と心の中にて誇りたる事柄も実は全くの間違いなり、夫を深くも正さゞりし余と目科の手落も浅しと云う可からず、探偵の事件には往々《おう/\》斯《かく》までに意外なる事多し此一事は此後余が真実探偵社会の一員と為りてよりも大《おおい》に余をして自ら省《かえりみ》る所あらしめたり、既に実《まこと》の罪人の捕まりし事なれば倉子の所天《おっと》藻西太郎は此翌朝放免せられたり、判事は放免言渡しのとき、彼れが我身に覚えも無き事を易々《やす/\》と白状して殆ど裁判を誤らしめんとするに至りし其不心得を痛く叱るに彼れ屡々《しば/\》首《こうべ》を垂れ「私しは自分より女房が可哀相です、自分で一|層《そ》罪を引受け、女房を助ける積でした、はい実は一図に最《も》う女房が殺した事と思い詰めましたので、はい畢竟《ひっきょう》云えば女房が私しに貧しい暮しをさせて置くのが可愛相で夫ゆえ伯父を殺して呉れたと思いまして、はい爾とすれば其志ざしに対しても女房を懲役に遣《やっ》ても済ぬと思いまして、はい夫でも昨夜|探偵吏《たんていり》のお話に曲者が犬を連れて行たと聞き若しや生田では有る舞いかと思い附き忌々《いま/\》しくて成ませんでしたが能く考えて見ると生田が其様な事をする筈は無く、矢張り女房が犬を連て行たのだと斯う思いまして其儘思い止まりました」此説明には判事も其女房孝行に苦笑いを催しつ、以後を誡《いまし》めて放免したりとなん。
 藻西太郎は此外に何事をも言立ざりしかど彼が己の女房を斯《かく》も罪人と思い詰めたる所を見れば、何か女房に疑う可き廉《かど》の有りしには相違なく、多分は倉子が一たび太郎に向い伯父を殺せと説勧《ときすゝ》めたる事ありしならん、如何に女房孝行とは云え真逆《まさか》に唯一人の伯父を殺すほどの悪心は出し得ざりし故、言葉を托して一月《ひとつき》二月《ふたつき》と延し居るうち女房は我|所天《おっと》の活智《いくじ》なきを見、終《つい》に情夫の生田に吹込みたる者ならん、生田は藻西太郎と違い老人を縁も由因《ゆかり》も無き他人と思えば左《さ》まで躊躇する事も無く、殊に又之を殺せば日頃憎しと思う藻西は死し老人の身代《しんだい》は我愛する美人倉子の持参金と為りて我が掌底《たなそこ》に落《ころ》がり込む訳なれば承知したるも無理ならず。
 個は余と目科の考えにして孰《いず》れとも倉子が此罪の発起人なるに相違なけれど倉子の自由自在に湧出る涙は能く陪審員の心を柔げ倉子は関係無き者と宣告せられ生田は情を酌量し懲役終身に言渡されたり。
 藻西太郎は妻に代りて我身を捨んとまで決心したる男なれば倉子が放免せらるゝや直《たゞ》ちに引取りて元の通りに妻とせり、梅五郎老人の身代は藻西太郎の手に落たれど倉子の贅沢増長したれば永く続く可しとも思われず、此頃は其金にてトローンの近辺へ不評判なる酒店を開業し倉子は日夜酒に沈溺せる有様なれば一時美しかりし其|綺倆《きりょう》も今は頽《くず》れて見る影なし、太郎も倉子が酔たる時は折々機嫌を取損ね打擲《ちょうちゃく》せらるゝ事もありと云えば二人《ににん》はそろ/\零落の谷底に堕落し行く途中なりとぞ。[#地付き](以上、後の探偵吏カシミル、ゴヲドシル記《しる》す)
[#地から1字上げ](終)
[#地付き](小説集『綾にしき』明治二十五年八月刊収載)



底本:「日本探偵小説全集1 黒岩涙香 小酒井不木 甲賀三郎集」創元推理文庫、東京創元社
   1984(昭和59)年12月21日初版
   1996(平成8)年8月2日8版
初出:「綾
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全28ページ中27ページ目


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