無いか」と殆ど余の唇頭《くちびる》まで出《いで》たれど茲《こゝ》が目科の誡《いまし》めたる主意ならんと思い返して無言の儘《まゝ》に従い入るに、目科は此店の女主人《じょしゅじん》に向い有らゆる形の傘を出させ夫《それ》も了《いけ》ぬ是も気に叶わずとて半時間ほども素見《ひやか》したる末、終《つい》に明朝見本を届くる故其見本通り新《あらた》に作り貰う事にせんと云いて、此店を起出《たちいで》たり、余は茲《こゝ》に至り初て目科が毎《いつ》もより着飾《きかざり》たる訳を知れり、彼は斯《か》く藻西が家の近辺にて買物を素見《ひやか》しながら店の者に藻西の平生《へいぜい》の行いを聞集めんと思えるなり、身姿《みなり》の立派だけ厚く遇《もて》なさるゝ訳なれば扨《さて》も賢き男なるかな、既に蝙蝠傘屋の女主人なども目科が姿立派なると注文の最《いと》六《むず》かしきを見て是こそは大事の客と思い益々世辞沢山に持掛けながら知《しら》ず識《しら》ず目科の巧みなる言葉に載せられ藻西夫婦の平生の行いに付き己れの知れる事柄だけは惜気も無く話したり、斯《かく》て目科は幾軒と無く又別の店に入り同じ手段にて問掛るに、藻西太郎の捕縛一条は昨夜より此近辺の大問題と為《な》れる事なれば問ざるも先より語り出る程にして中に口重き者あらば実際に少しばかりの買物を為し※[#「研のつくり」、第3水準1−84−17]《そ》を餌に話の端緒《いとぐち》を釣出すなど掛引万々抜目なし、六七軒八九軒|凡《およ》そ十軒ほど素見《ひやか》し廻りたる末、藻西夫婦が事に付き此辺の人が知れるだけの事は残り無く聞集めたるが其大要を摘《つま》めば藻西太郎は此上も無き正直人《しょうじきじん》なり何事ありとも人を殺す如きことは決して無く必ず警察の見込違いにて捕縛せられし者ならん遠からず放免せらるゝは請合なり、彼《か》れ其妻に向いては殆ど柔《やわら》か過るほど柔かにして全く鼻の先にて使われ居し者なり、斯《かく》も妻孝行の男は此近辺に二人と見出し難し、等《とう》の事柄にして殆ど異口同音なり、唯《た》だ彼れの妻お倉に就きては人々の言葉に多少の違い有れど引括《ひきくゝ》れば先ず、お倉は美人なり、身体に似合ぬほど其衣類立派なり、去《さ》れど悪き癖とては少しも無し、身持は極めて真面目なり、亭主に向いては威権《いけん》甚《はなは》だ強過れど爾《さ》ればとて恭《うやま》わざ
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