《まっち》を貸し或は小刀《ないふ》を借るぐらいの交際《つきあい》は有り、又時としては朝一緒に宿を出《い》で次の四辻にて分るゝまで語らいながら歩むなどの事も有りたれど其身分其職業などは探り知ろう様《よう》も無く唯《た》だ此の目科に美しき細君ありて充分目科を愛し且《か》つ恭《うやま》う様子だけは知れり、去《さ》れど目科は妻ある身に不似合なる不規則|千万《せんばん》の身持にて或時は朝|猶《なお》暗き内に家を出《いず》るかと思えば或時は夜通し帰り来《きた》らず又人の皆|寝鎮《ねしずま》りたる後《のち》に至《いた》り細君を叩き起すことも有り其上《そのうえ》時々は一週間ほど帰り来らぬことも珍しからず、斯《かく》も不規則なる所夫《おっと》に仕え細君が能《よ》く苦情を鳴《なら》さぬと思えば余は益々|訝《いぶか》しさに堪《た》えず、終《つい》に帳番に打向《うちむか》いて打附《うちつけ》に問いたる所、目科の名前が余の口より離れ切るや切らぬうち帳番は怫然《ふつぜん》と色を作《な》し、毎《いつ》も宿り客の内幕を遠慮も無く話し散《ちら》すに引代《ひきかえ》て、余計な事をお問《とい》なさるなと厳しく余を遣込《やりこ》めたれば余が不審は是よりして却《かえっ》て、益々|募《つの》り、果《はて》は作法をも打忘れて熱心に目科の行《おこな》いを見張るに至れり。
 見張り初《はじ》めてより幾程《いくほど》も無く余は目科の振舞に最《い》と怪しく且《かつ》恐ろしげなる事あるを見て何《ど》うせ碌《ろく》な人には非《あら》ずと思いたり、其事は他《ほか》ならず、或日目科は当時の流行を穿《うが》ちたる最《いと》立派なる服を被《き》かざり胸には「レジョン、ドノル」の勲章を燦《きら》めかせて外《ほか》より帰ると見たるに其《その》僅《わず》か数日後に彼れは最下等の職人が纏《まと》う如《ごと》き穢《きたな》らしき仕事衣《しごとぎ》に破れたる帽子を戴《いたゞ》きて家を出《いで》たり、其時の彼れが顔附は何処《どこ》とも無く悪人の相《そう》を帯び一目見るさえ怖《こわ》らしき程なりき、是さえあるに或午後は又彼れが出行《いでゆ》かんとするとき其細君が閾《しきい》の許《もと》まで送り出で、余所目《よそめ》にも羨《うらや》まるゝほど親《したし》げに彼れが首に手を巻きて別れのキスを移しながら「貴方《あなた》、大事をお取《とり》なさい、内《う
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