思い附き忌々《いま/\》しくて成ませんでしたが能く考えて見ると生田が其様な事をする筈は無く、矢張り女房が犬を連て行たのだと斯う思いまして其儘思い止まりました」此説明には判事も其女房孝行に苦笑いを催しつ、以後を誡《いまし》めて放免したりとなん。
藻西太郎は此外に何事をも言立ざりしかど彼が己の女房を斯《かく》も罪人と思い詰めたる所を見れば、何か女房に疑う可き廉《かど》の有りしには相違なく、多分は倉子が一たび太郎に向い伯父を殺せと説勧《ときすゝ》めたる事ありしならん、如何に女房孝行とは云え真逆《まさか》に唯一人の伯父を殺すほどの悪心は出し得ざりし故、言葉を托して一月《ひとつき》二月《ふたつき》と延し居るうち女房は我|所天《おっと》の活智《いくじ》なきを見、終《つい》に情夫の生田に吹込みたる者ならん、生田は藻西太郎と違い老人を縁も由因《ゆかり》も無き他人と思えば左《さ》まで躊躇する事も無く、殊に又之を殺せば日頃憎しと思う藻西は死し老人の身代《しんだい》は我愛する美人倉子の持参金と為りて我が掌底《たなそこ》に落《ころ》がり込む訳なれば承知したるも無理ならず。
個は余と目科の考えにして孰《いず》れとも倉子が此罪の発起人なるに相違なけれど倉子の自由自在に湧出る涙は能く陪審員の心を柔げ倉子は関係無き者と宣告せられ生田は情を酌量し懲役終身に言渡されたり。
藻西太郎は妻に代りて我身を捨んとまで決心したる男なれば倉子が放免せらるゝや直《たゞ》ちに引取りて元の通りに妻とせり、梅五郎老人の身代は藻西太郎の手に落たれど倉子の贅沢増長したれば永く続く可しとも思われず、此頃は其金にてトローンの近辺へ不評判なる酒店を開業し倉子は日夜酒に沈溺せる有様なれば一時美しかりし其|綺倆《きりょう》も今は頽《くず》れて見る影なし、太郎も倉子が酔たる時は折々機嫌を取損ね打擲《ちょうちゃく》せらるゝ事もありと云えば二人《ににん》はそろ/\零落の谷底に堕落し行く途中なりとぞ。[#地付き](以上、後の探偵吏カシミル、ゴヲドシル記《しる》す)
[#地から1字上げ](終)
[#地付き](小説集『綾にしき』明治二十五年八月刊収載)
底本:「日本探偵小説全集1 黒岩涙香 小酒井不木 甲賀三郎集」創元推理文庫、東京創元社
1984(昭和59)年12月21日初版
1996(平成8)年8月2日8版
初出:「綾
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