対する仕方なぞはずいぶんひどかった。
 ある日、ポーランド人の若いピアニストが何かのことから支那の労働者を怒鳴りつけて、支那人なんかは人間じゃないんだ、奴等にはどんなことをしたっていいんだ、と傲語しているところへ、ペチカ等が来た。そしてペチカ等はこのピアニストに食ってかかって、支那人だって人間だ、われわれロシア人やポーランド人と同じ人間だ、と言って、その半日を両方真赤になってこの議論で暮した。
 そのペチカ等が、ユダヤ人だと言うと、まるで見むきもしないのだ。そして僕が時々そのユダヤ人等と話ししているのを見ると、その日一日は僕に対してまでも不機嫌な脹れ面をしているのだ。
 僕はこのペチカ等のあるものの紹介で、一等にいた一人のロシア人の女とも知りあいになった。この女はモスクワ大学の史学科を出て、パリにも留学したことがあり、大ぶ進歩した自由思想の持主で、いつも僕と一緒に上陸してはできるだけ遠く田舎へドライヴして、土人の生活を見るのを楽しみにしていた。そしてマダムはそれら土人の生活を心から愛していたようだった。
 しかるにこのマダムが、アフリカのヂブチに上陸していろいろと買物をしようとした時、もう夕方で大がいの店はしまっていて、ただユダヤ人の店だけ開いているのを見て、とうとうそこの名物のそしてマダムがしきりに欲しがっていた駝鳥の羽も何にも買わずに船へ帰ってしまった。最後の一軒の店なぞでは、ここはそうらしくなさそうだからと言いながらはいって行ったのだが、主人らしい男の少しとんがった鼻さきを見るや否や、青くなって、慄えるようにしてそこを飛び出した。そしてこんな汚らわしいところには一時も居れないというような風で、少々呆気にとられている僕の手をとって、大急ぎで帰った。

    五

 フランスの船は、海防《ハイフォン》とか西貢《サイゴン》とかの、仏領交趾支那の港に寄る。そして、そこからまた、満期になったフランスの下士官どもや兵隊が大勢乗った。
 ただの兵隊はみんな飲んだくれで、どうにもこうにもしようのないような人間ばかりだった。前に言った水兵どもは、みんな若くて、多少の規律もあり、薄ぼんやりした顔つきはしていたが、人間らしさは十分にあった。が、この兵隊どもになると、もういい加減の年恰好で、豚のようにブウブウ唸りながらごろごろしている奴か、あるいは猛獣のような奴か、とにかく人間というよりはむしろ畜生どもばかりだった。
 その中で一人、それでも一番人の好さそうな男だったが、いつもふらふらした足つきで僕等のそばへやって来て、ろれつの廻らない舌つきで何か話しかける男があった。
「俺あこういうもんなんだ。」
 と言いながら、その差しだす軍隊手帳を見ると、読み書きはできる、ラッパ手、上等兵とあって、その履歴には、ほとんど植民地ばかりに、あすこに二年ここに三年というように、十八年間勤めあげたことが麗々しく書きならべてある。懲罰の項には何にも書いてない。が、褒賞の方には何かいろいろとあった。そして今は病気のために除隊するのだとある。
「それでもこれっぽちの金しか貰わないんでさあ。」
 彼はそう言いながら、破れた財布の中から十フランの札を四、五枚パラパラとふって見せて、
「アハハハ。」
 と笑った。それが不平なのだか、嬉しいのだかすらも、ちょっとは分らないほどに。
 が、この飲んだくれの兵隊どもはまだいいとしても、がまんのできないのは三等に乗りこんだ下士官どもだった。そいつらは、まったく熊か猪かの、猛獣のような奴ばかりだった。そしてそいつらの女房どもまでが、ろくでもない面をして。
「あれはこいつらがやったんだな。」
 僕はそいつらの顔を見るとすぐ、その日陸で読んだある新聞の記事を思いだした。
 安南の土人がやっているフランス文の日刊新聞の中に、大きな見だしで、ある殺人事件を論じてあった。事件はごく簡単なもので、土人の一商人が川の中に溺れ死んでいた、というだけのことだ。が、それがただそれだけで済まないのは、そうしたことがずいぶん頻々とあって、しかもその原因がいつもちっとも分らない、いや分ってはいるがそれをはっきりと公言することができない、そこに妙な事情がからんでいるからだ。
「ええ、あいつらは何をするか知れたもんじゃない。恩給と植民地の無頼漢生活とをあてに、十年十五年と期限を切って、わざわざこんな植民地へやって来る。本当の職業的軍人なんだからね。」
 フランスの水兵のジャン君もすぐと僕の直覚に同意した。そして僕は、デッキででも食堂ででもいつも傍若無人にふるまっているそいつらとは、とうとう終いまで、ただの一度も「お早う」の挨拶を交わしたことがなかった。
 その後僕はフランスに着いてから、あちこちの壁に、この植民地行きを募集する陸軍省の大きな広告のびらを見た。三年間はいくら、五年間はいくら、十年間はいくら、十五年間はいくら、というようにだんだんその率のあがって行く、給料や恩給の金額も、ことさらに大きく太い文字で書きならべてあった。

    六

 たぶん香港《ホンコン》からだったろう、一人の安南人らしい、白い口髯や細いあご髯を長く垂らして品のいいお爺さんが乗った。
 僕はこのお爺さんと一度話しして見ようと思っていたが、とうとうその機会がなくって、西貢かで降りてしまった。海防から乗った若い安南の学生に聞くと、もとの王族の一人で、今も陸軍大臣とか何とかの空職に坐っているのだそうだ。ロシアの旧将軍が三等で威張っているのは、ちょいと滑稽だったが、これは何だか傷ましいような気がした。
 それでもこのお爺さんは、温厚らしいうちにも、どこか知らに侵すことのできない威厳をもっていた。が、一般の安南人となると、見るのもいやなくらいに、みな卑劣と屈辱とでかたまっているように見えた。そしてこれは、安南人が他の東洋諸民族にくらべて顔も風俗も一番われわれ日本人によく似ているようなのでなおさらいやだった。
 海防や西貢の町を歩いて見ても、安南人はみな乞食のような生活をして小さくなっている。ちょっとした店でもはって、多少人間らしくしているのは、支那人かあるいはインド人だ。そして、フランス人はみな王侯のような態度でいる。
 西貢で、マダムNと一緒に田舎へ行って、路ばたのある小学校を見た。バラックのような四方開けっぱなしの建物を二つにしきって、三十人ばかりずつの子供がそこで何か教わっていた。僕等がはいって行くと、生徒は一斉に起ちあがって腰をかがめ、先生は急いで教壇から降りて来て丁寧すぎるほどにお辞儀した。それだけで僕はもう少々いやな気がした。
 先生はマダムNの質問に答えて、生徒には絶対に漢字を教えないで、一種のローマ字で書き現した安南語を教えているということを、非常な得意で話した。勿論、それは悪いことじゃない。大いにいいことだろう。が、フランスの植民政府がそうさせる意味と、この先生がそれを得意になる意味とには僕等の同意することのできないあるものがあるのだ。
 安南人の子供等は、こうして教育されて行って、だんだんにフランス語を覚えて、その中の見こみのありそうなものはフランスへ留学させられる。そして帰ると、学校の先生かあるいは何かの小役人にさせられる。僕が前に言った若い安南人というのも、やはり以前フランスに留学して、帰ってしばらく役人もやって、今また再度の留学をするのだった。
 僕は支那で、外国人のところに使われている支那人が、その同国人にいやに威張るのを見た。それと同じことを、この若い安南人はそうでもなかったが、やはり安南ででもあちこちで見た。ことに安南人の兵隊や巡査なぞはなおさらにそれがひどかった。
 が、このフランス留学には、それと違った妙な意味あいからもある。安南人と言っても、そうそう卑劣と屈辱とにかたまっているものばかりじゃない。いろんな人間が出て来る。そしてフランスの官憲は、彼等に多少の言論の自由を許さなければならないまでに、余儀なくされている。しかし、その人間どもの中で、少し硬骨でそして衆望のあるのが出ると、すぐにそれをパリへ留学させる。そして毎月幾分の金をやってどこかのホテルの一室に一生を幽閉同様にして置く。
 その一人に、パリでそっと会う筈にしていたが、やはりいろんな面倒があって、とうとうそれを果すことができなかった。

    七

 英領やオランダ領の、マレー、ジャワ、スマトラなどの土人も、みな安南人と同じように乞食のような生活をしている人間ばかりのように見えた。シンガポールでも店らしい店を出しているのはみな支那人かインド人かだった。土人はほんの土百姓かあるいは苦力《クウリイ》かだ。
 その支那人やインド人やはみな泥棒みたいな商人ばかりでいやだったが、道で働いている労働者の支那人やインド人は土人と同じような実に見すぼらしいものだった。ことにインド人が、あの真黒なちょっと恐そうな目つきをしていながら、そばへ寄って見ると実に柔和そうないい顔をしているのには、なおさらに心をひかれた。この支那人やインド人や土人の苦力どもは、まるで犬か馬かのように、その痩せ細った裸のからだを棒でぶたれたり靴で蹴られたりしながら、働いているのだ。
 これは、帰りの船の中でスマトラから来た人に聞いた話だが、時々この主人どもに対する土人等の恐ろしい復讐がある。土人の部落の中にだけで秘密にしてある、ある毒矢で暗うちを食わす。椰子やゴムの深い林の中から、不意に、鉄砲だまが自動車の中に飛んで来る。虎だの犀だのの被害のほかに、こんな被害も珍らしくはない。
 が、そうした個人的復讐ばかりじゃない。スマトラの土人の中には、すでに賃金労働者として目覚めた労働者の大きな労働組合すらもある。そしてその中の鉄道従業員組合が、ちょうど僕等がそこを通る少し前の五月から六月にかけて、一カ月あまりの総同盟罷工をやった。
 オランダの官憲は、急に法律を改正して、いっさいの集合はその一週間前に届出ろと命じて、ほとんど労働者の集合を不可能にした上に、さらに主なる首領等を一網打尽的に拘禁した。そして警察力のほかに兵力までも動かしてそしてようやくのことでそれを鎮定した。
 この土人の組合は職業的にも組織されているが、また宗教的にも組織されて、ことに回々《ふいふい》教徒はもっとも強固に団結している。そしてそこには、賃金奴隷からの解放のほかに、民族的や宗教的の独立という意味までも加わって、なおさらにその熱烈の度を高めている。
 土地の新聞の言うところでは、そこにはまだいわゆるボルシェヴィキの煽動や影響はないが、広い意味での社会主義的思想は十分にはいっている。もしそれが、さらにインドや支那の同じ教徒等と結んで、英領やオランダ領の各地で事を挙げるようなことがあったら、それこそ大変だ、そうだ。
 さきに僕は香港の港を眺めながらの、支那の学生等の愛国的憤慨の言葉も聞いた。また、それらの学生の、安南をフランスから取返さなければ、という気焔も聞いた。そしてある時なぞは、フランスの下士官どもが、船の中へはいりこんで来た支那人の泥棒(?)を血だらけになるほどなぐったり蹴ったりしたのを見て、みんなキャビンにはいりこんだまま飯も食わずに憤慨しているのも見た。しかしまた同時に、彼等が同じ支那人の苦力の車夫を、ちょっとした賃金の問題から大勢でいきなりなぐったり蹴ったりするのも見た。そして彼等に対する同情がまったく失せてしまった。
 救いはこんな愛国者からは来ない。

    八

 コロンボ近くなった頃だと思う。無線電信で、ルール地方占領とフランスの共産党首領カシエン等の捕縛とが伝えられた。
 戦前のドイツ対フランスと、戦後のドイツ対フランスとは、少なくともその軍備においてまったく正反対になっている筈だ。ドイツの軍隊はほとんどまったく破壊されてしまった。そしてフランスは、その生産力の恢復よりも、軍備の充実により多くの力を注いだ。とてももう相撲にはならない。したがってドイツが急にこの挑戦に応じようとは考えられなかったが、軍国主義と反動主義とのお塊りのように
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