かく警察へ行って、それから船へちょっと行って室だの寝台だのの番号をたしかめて、さらにまた引帰してもう一晩友人等とお別れの遊びをしよう、というつもりだったのだ。
警察では、パリの警視庁から来た長文の電報を前に置いて、いろいろと取調べのあった末に、私服を一人つけて、船へ一緒にやらした。
僕は船の中でのいろんなことがきまると、友人等と一緒に飯を食う約束のうちへ行こうと思って、船から降りようとした。すると、さっき僕について来た私服が、ほかに三人ばかりの私服と一緒に昇降口の梯子のところに突っ立っていて、通さない。
「もう船に乗った以上は、降りることはできない。国境から出てしまったんだ。降りれば、再びまた国境にはいったものとして、六カ月の禁錮に処する。」
そんな馬鹿なことがあるもんか、それならそうと何故さっきそう言わないんだ、といろいろに抗弁して見たが、要するに何とも仕方がない。
僕は船のボーイに電話をかけさせて、友人等にそのことを知らせて、そして自分の室の中に寝ころんだ。
船は六月三日の朝早く碇をあげた。
[#地付き]――一九二三年八月十日、東京にて――
[#改ページ]
外遊雑話
一
いつも旅をする時には、行きは大名帰りは乞食、というのがおきまりなのだが、こんどは例外でそのあべこべに行った。帰りはマルセイユの領事館で二等の切符を買ってもらった。それもうまく行けばほんとうのお大名の一等のをもらえる筈だったが、パリの大使館で誰かがもっとも千万の三等説を持ち出したので、その間をとって二等ときまったのだそうだ。が、行きは、ちゃんと身分相応ふところ相応の三等で行った。
もっともフランスの船の三等というのは、ちょうど郵船の特別三等みたいなもので、二人部屋と四人部屋とあるのだが、僕はその二人部屋にはいった。相客は支那の若い学生だった。
支那の学生は、そのほかに、女二人と男が八人ばかりいた。そしてそれらの人達と僕とが食堂では同じ一つのテーブルについた。みんな少々英語を話す。日本語も一人二人はちょっと話せた。が、どうしたものか、僕はそれらの人達とはあまり仲よしになれなかった。そして僕は、同じ三等のそれらの支那人や、その他の人々とは離れて、大がい四等のデッキ・パセンジアの仲間にはいっていた。
この四等には、最初、上海から乗った支那の労働者二、三十名と、フランスの水兵十名ばかりとのほかに、十五、六名のロシア人がいた。そして僕がさっそく仲間になったのは、このフランスの水兵の中の一人と、ロシア人の中の若い学生十人ばかりとだった。
フランスの水兵は、揚子江上りの砲艦に乗っていたのだが、満期になって国へ帰るのだった。始終一緒になって、何かの鼻歌を歌いながら、デッキの上を散歩していた。その中に一人、いつもみんなとは別になって、どこかの隅に坐って本を読んでいる、まだごく若い利口そうな顔つきをした男がいた。
僕はまずその男とすぐ知りあいになった。フランス語の会話のけいこにと思って、ボンジュル・ムッシュ(こんにちは)とか何とか話しかけたのがもとだった。
僕は年は二十八、社会学専攻の一学生、労働問題研究のためのフランス留学、という触れこみだった。したがって、その水兵との話は、お互いの身分や行くさきの問答のあとで、すぐフランスの労働運動のことにはいった。
彼自身が何等かの運動に加わっていたのでもなし、また特別に研究したというほどでもないので、その話から得るところといっては何もなかった。が、この男の、兵役や戦争に対する峻烈な攻撃は、その身分がらずいぶん面白く聞いた。
「ヨーロッパの大戦だって、もう半年か一年続いて見たまえ。フランスなんぞはすぐ滅茶苦茶につぶれてしまったんだ。(五行削除)」
二
(三十一字削除)この水兵の話やまたその後フランスへ行ってからのいろんな人達の話で、そのずいぶん範囲の広かったことや大げさだったことに驚いた。
そのために殺されたものもかなり多い。また牢にはいって今まだそこにいるものも大ぶある。そしてまた、今でもまだ逃げ廻って、日蔭者でいるものも少なくはない。
そして戦争中のこれらのいわゆる犯罪人や、またその後の反動政治の犠牲等のための大赦運動が、前々からもまた僕が行っている間にも、盛んに行われていた。しばしば示威運動もあった。メーデーの要求の中にもそれが大きな一個条になっていた。
政府は幾度か大赦の約束をした。が、それはいつもただ約束だけのことだった。
水兵のジャン君が話した、いわゆる Mutins《ミュテン》 de《ド》 La《ラ》 Mer《メエル》 Noire《ノワル》(黒海の謀叛人)の首領、共産党の何とかという男は、まだ牢にはいっていたが、僕がフランスを出る数日前に、パリ近郊の下院代議士補欠選挙の候補者として、未曽有の投票数で当選した。反対諸党は合同して一人の候補者を出す筈であったのだが、この謀叛人側の前景気がばかにいいのに恐れをなしてまったくひっこんでしまったので、本当の一人天下で当選したのだ。そしてこの選挙にもう一つの面白い現象は、棄権者が全有権者の半分以上もあったことだ。近郊と言えば大がいは労働者町なのだ。フランスの労働者は、少なくともパリ近郊の労働者は、半分は謀叛人に組みし、残りの半分はまったく政治に興味を持たないのだ。
この「謀叛人」はまた、それとほとんど同時に、やはりパリ近郊のある町から、市会議員としても選挙された。
が、はたして彼が、かくして労働者の望み通り代議士または市会議員となって釈放されたか、あるいはまた、政府の望み通り当選無効となってまだやはり牢やにいるか。その後のことは知らない。
しかし、兵役を攻撃したり、戦争に反対したり、またこんな謀叛人の話を得意になってするからといって、ジャン君は決して共産主義者でもなければ、またその他の何々主義の危険人物でも何でもない。
「君も一種の社会主義者だね。」
何かの話の時に僕がこう言ってひやかしたら、
「そうだ、社会主義者だ。」
と立派に肯定して置いて、そして彼自身のいわゆる社会主義なるものを説明して聞かした。それによると、要するに彼は、資本家と労働者とのいわゆる利益分配で十分満足しているようなのだ。
ヨーロッパで社会主義者《ソシャリスト》だと言っている人間は、まあ大がいそんなものと見ていい。昔僕は、ドイツの社会党首領ベーベルなぞは、大隈の少し毛のはえたくらいのものだろうと言ったことがあるが、今ではもっともっと社会主義者の値うちは下落している。共産主義者だってだんだん下落して来ている。
そしてジャン君は、ひまさえあれば、シェークスピア全集の英文の安本を字引を引き引き読み耽っていた。そしてまた時々、一尺もの高さの手紙やハガキの束を引きずり出して、一人でにこにこしながら読んでいた。そのいいなずけ[#「いいなずけ」に傍点]だという、同郷ブルタニュのある百姓娘からよこした文がらなのだ。そして彼はこのいいなずけ[#「いいなずけ」に傍点]と一緒に、もとの平和な百姓の生活にはいるべく毎日日数を数えていた。
三
このジャン君と一、二度話ししている間に、もうその友達になっていた、若いロシア人の連中とも話しあうようになった。みんな少々ずつ英語を話せたのだ。
そのロシア人等は二十歳前後から二十五、六歳ぐらいまでの青年で、みなハルピンから来たのだった。そしてその年かさのものは、みな兵隊に出て、まずドイツやオーストリアの軍隊と戦い、さらにボルシェヴィキの赤衛軍と戦って、ヨーロッパ・ロシアからシベリアに、シベリアからハルピンに逃げて来て、今はあるいはドイツに、あるいはフランスにそのもとの学業を続けに行くのだった。
僕はこのロシア人等とすぐに一番いい友達になった。そして僕は、彼等のことをペチカ(ピヨトルをピヨちゃんと言うようなものだ)とか、ミンカ(ミハエル)だとか呼び、彼等もまた僕のことをマサチカ(彼等の間では僕は日本人として正一《まさいち》という変名でいた)と呼んでいた。
みな元気で快活で、よくしゃべり、よくお茶を飲み、よく歌を歌い、よくふざけ、よく踊り騒いだ。そんなのはこのロシア人の連中だけだったのだ。
僕も毎日そのお仲間入りをしていたが、しかし僕が一番興味を持ったのは、彼等の中の四、五人、ことにペチカやミンカがよく話しだすロシアの内乱の話だった。そしてまたことに、彼等がヨーロッパ・ロシアやシベリアのいたるところの反革命軍に加わっていながら、帝政復興とか反革命とかの思想や感情を少しも持っていないことだった。
「じゃ、なんで、反革命軍なんかにはいったんだ?」
と聞くと、要するに彼等は、農民に対するボルシェヴィキの暴虐に憤って、農民等と一緒に武器をとって立っただけのことなのだ。
ボルシェヴィキが食料の強制徴発に来る。農民がそれに応じない。すると、その労働者と農民との政府は、すぐに懲罰隊をくりだす。全村が焼き払われる。男はみな殺される。女子供までも鞭うたれる。そして最後の麦粉までも、また次の種蒔きの用意にとって置いた種子までも持って行かれる。山や森の奥深く逃げこんだ農民等は、いわゆる草賊となって、ボルシェヴィキに対する復讐の容赦のないパルチザンとなる。
彼等はこの絶望的の農民と一緒になったのだ。そして、やはりまたその農民等と一緒に、帝政復興とか反革命とかの考えは少しもなしに、ただボルシェヴィキに対する復讐と自己防衛とのために、そのボルシェヴィキと戦う唯一の力だと思われた反革命軍に加わったのだ。
これもその後フランスへ行ってから詳しく知ったことだが、こうしてロシアの反革命軍は、いたるところで農民のパルチザンを併せて、ボルシェヴィキと戦った。そしてその反革命の野心を見やぶった他の農民のパルチザンとも戦った。そしてまたこの最後のパルチザンは、それと同時に、ボルシェヴィキの赤衛軍とも戦っていたのだ。そしてさらにまた、この赤衛軍の中には、まったく強制的に、そのわずかばかりの財産とともに、からだまでも徴発されて行った農民がずいぶんあったのだ。
こうしたまったく混線の内乱の中で、いわゆる革命のために、ロシアの農民は何百万とかの生命を失ったと言われている。しかもその内乱は、ほとんどみな復讐と復讐との重なりあいの、聞いただけでも身の毛のよだつような容赦のない残忍の、猛獣と猛獣との果しあいだったのだ。
四
この若いロシア人のほかに、まだ七、八人の、多少年輩のロシア人やポーランド人やチェコ人やユダヤ人がいた。細君や子供のあるものはそれを三等に乗せて、男どもだけが四等にいた。
その連中の中に、細君一人だけ三等に置いて、もう二十歳ばかりの息子と一緒にいた六十歳ぐらいの老ロシア人があった。品も何もない本当の百姓面に、両方のを合せると一尺あまりになる胡麻塩の太い口髯だけ厳めしそうに延ばして、きたない背広のぼろ服の胸に青だの赤だのの略章の勲章を七、八つならべていた。細君もきたない風の、やはり品も何もない顔の、お婆さんだった。そして、その息子は、大ぶ低能らしく、いつも口をぽかんと開いていた。
この三人はいつも三等のデッキで籐椅子の上に横になっていたが、ある日、お爺さんが僕の前へ来てこんにちはと日本語で挨拶して、あとは何だか分らないロシア語でぺちゃくちゃとやった。が、しきりに胸の勲章を指さしては何か言っているようなので、よく注意して聞くと、ヤ・ヘロ、ヤ・ヘロという言葉が時々繰りかえされる。ヤは俺で、ヘロは英雄だ。僕も仕方なしに、ダ・ダ・ヴィ・ヘロ(そうです、あなたは英雄です)とやってやった。それからなおよく聞いて見ると、ゲネラル(将官)で、日露戦争にも出たと言って、たぶんその時に貰った勲章なのだろう、胸の略章の一つを指さして見せた。
あとでペチカに聞くと、実際ヘロはヘロで、一兵卒から将官にまでなって、豪勇無双なのだという。が、ペチカの連中は誰もこのヘロのことなぞは相手にしていなかった。
相手にしないと言えば、ユダヤ人に
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