ランスのこの自由はすぐさま幻滅させられてしまった。受付の男が活版刷の紙きれを持ちだして、そこへ何か書き入れろと言う。見れば立派な宿帳だ。しかも日本の宿帳なんかよりよっぽどうるさい宿帳だ。マダムと僕とは顔を見合した。そして二人で一々書き入れて行ったが、最後のカルト・ディダンティテ(身元証明書)の項で二人とも行きづまった。
「これは何でしょうね。」
 僕はマダムに尋ねた。
「さあ、何ですかね。」
 マダムもちょうどそこでペンを休めて考えていたのだ。
「いや、もしカルト・ディダンティテをお持ちでなければ、パスポオルでもいいんです。」
 二人は番頭にこう注意されながら、まだその「パスポオルでもいいんです」というのが何のことかよく分らなかった。が、ただそう書き入れればいいのだと分って、二人は二階の一室へ案内されて行った。
 マダムはそれだけのことでもういい加減その顔をくもらしていた。が、二人ともまだ、そのカルト・ディダンティテがどんなものかということはちっとも知らなかったのだ。
(前の「日本脱出記」の中では、パリで初めてこのカルト・ディダンティテの問題にぶつかったように言ってあるが、あの時にはま
前へ 次へ
全159ページ中75ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
大杉 栄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング