あった。そしてそれには何よりもまずこのカルト・ディダンティテが必要なのだ。それに、フランスに二週間以上滞在する外国人は、すべてその居住地の警察のカルト・ディダンティテを持っていなければならないのだ。そしてどこへ行くんでも、いつでも、必ずそれを身につけていなければならないのだ。それがなければ、すぐ警察へ引っぱって行かれて、もし申し訳が立たなければ、すぐさま罰金か牢だ。そしてその上になお追放と来る。
「まあ、犬の首輪と同じようなものさ。」
 と、同志のAは説明して聞かせながら、ポケットから自分のカルト・ディダンティテを出して見せた。写真もはりつけてある。両親の生年月日までもはいっている。そしてそれにフランス人が二人と同国人が二人保証人に立っている。
 このカルト・ディダンティテを貰うのに一週間ほどかかった。そしてその間に僕は、ある日、新聞で見たその晩のフランス人の同志の集会に案内してくれないかと頼んだ。が、それもやはりA等に許されなかった。そんなところへ行こうものなら、すぐあとをつけられて、カルト・ディダンティテはもとより、ヨーロッパ歴遊のパスポオルも、また僕自身のからだも、どうなるか分らんとおどされた。

 ここにおいて、初めて僕は、戦後のフランスの反動主義がどんなものかということが本当に分った。そしてこのフランスにはいればもう大丈夫どころではなく、かえって危険がすぐ目の前にちらついているように感じた。

    二

 手帳のようなものになっているカルト・ディダンティテの終りの幾ページかは、出発、到着、帰還の二字ずつを幾つも重ねた表で埋まっている。要するに、その居住地からどこかへ旅行するには、一々それを警察へ届け出て、その判を押して貰わなければならないのだ。
 が、僕はそんな面倒はよして、すぐパリへ出かけた。そしてベルヴィルのフランス無政府主義同盟へ行くと、そこは「日本脱出記」に書いたような警戒ぶりなのだ。
 さらにまた、同盟の事務所からごく近くのホテルに泊ると、そこでは普通に宿帳を書かした上に、カルト・ディダンティテの本物を見せろとまで言うのだ。
 僕はいよいよあぶないと思った。そしてリヨンから一緒に来た支那の一同志と、パリの郊外や少し遠い田舎にいるやはり支那の同志等を訪ね廻って、四、五日して帰って来ると、僕等をその宿へ案内した、そして自分もそこに下宿していたイタリアの若い女の同志が、急いで引越し仕度をしていた。警察がうるさくするので逐い出されるのだと言う。
 リヨンの同志はすぐ帰った。僕はその女と相談して、どこかもっと安全な宿を探して貰うことにきめた。そしてその晩は一緒に同盟の機関『ル・リベルテエル』の催しの民衆音楽会へ行った。会場のC・G・T・U(統一労働総同盟)事務所の入口の前は、十名ばかりの制服の憲兵が突っ立っていた。
 その翌日、ル・リベルテエル社へ行っていると、痩せこけて、髪の毛や鬚をぼうぼうのばして、今にも倒れそうになってはいって来た男があった。口もろくにはきけない。よく聞いて見ると、ハンガリイの同志で非軍備運動のために六カ月牢に入れられて、出るとすぐひそかにフランスに逃げこんだのだが、パスポオルのないためにまた捕まって三カ月牢に入れられて、今日放免とともに追放になったんだと言う。
 その晩は前から会う筈になっていたロシアの若い同志を訪ねた。いくら室の戸をノックしても返事がない。いないのかなと思いながらまた念のためノックしたら、ちょっと待ってくれという慄え声の声がする。やがて戸が開いてその同志は僕の顔を見るといきなり飛びついて来てだきしめた。どうしたんだと聞くと、いや、実は、いよいよ来たんだなと思って捕まる準備をしていたんだと言って笑いだした。この男も旅券なしで、ロシアからドイツに、そしてまたドイツからフランスに逃げて来ていたのだ。
 このロシアの同志もすぐまたドイツへ逃げ帰ろうと言うし、僕もこんなフランスに逃げかくれているんじゃ仕方がないと思って、それよりは大ぶましらしいドイツへ早く行こうときめた。僕の目的の国際無政府主義大会は、四月一日に、ベルリンで開かれることになっていたのだ。そこでは、本名を名乗らなければならないし、そこで捕まるのは仕方がないとしても、それまでにお上の手にあげられるのは少々癪だと思った。
 そこへ日本人の友人のSが訪ねて来た。日本を出て以来、日本人はいっさい禁物として絶対に会わない方針にしていたのだが、このSにだけはごく内々で僕の来たことと宿とを知らしてあったのであった。
 Sは、それじゃすぐ引越ししようと言って、新しい宿を探しに行った。そしてその日のうちに引越した。Sもしばらく田舎へ行っていたのをまた出て来たので、僕と一緒にそこへ宿をとった。
「集会にも出れなければ、ろくに人を訪ねるこ
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