ーロッパへ行ったことのある誰とも話はしなかったが、支那ではほやほやのフランス帰りの幾人かの人達と会った。
「なあに、フランスへあがりさえすれば、もう大丈夫ですよ。」
 その人達はみな同じようにそう言った。そして旅券なぞも、途中はもとより、マルセイユ上陸の時ですら、なければなしで通れるほどに世話がない、という話だった。
 もっとも、とにかく僕は、国籍と名だけはごまかしたが、しかし正真正銘の僕の、しかもその時の着のみ着のままの風の写真をはりつけた、立派な旅券を持っていた。その旅券からばれるというようなことはまずないものと安心していた。現にフランスの領事館でも、またイギリスの領事館でも、僕自身が出かけて行って、何のこともなくヴィザを貰って来たのだ。その旅券を、わざわざ余計な手数をかけてまで、見せずに通すほどのこともあるまいと思った。
 途中での僕の心配はもっとほかのことだったのだ。そしてそれはあらかじめ何ともすることのできないことなので、もし間違ったら仕方がないとあきらめるよりほかに仕方がなかった。
 しかし、それが無事に行って、フランスにはいりさえすればまず大丈夫だということは、僕も日本にいた時から思わないではなかった。ことにフランスの領事館へヴィザを貰いに行った時に、受付の男が僕の旅券を受取ったままちょっと引っこんだかと思うと、すぐにまたそれを持って出て来て、幾らかの手数料と引換えに渡してくれたのなぞは、その官憲の無造作にむしろ驚かされた程だった。
 このフランスの自由については、その後、船の中ででも大ぶ聞かされた。
「まあフランスへ行って御覧なさい。自由というものがどんなものか本当によく分りますよ。」
 モスクワ大学出身の女で、かつてパリに幾年か留学したことがあり、その兄が社会革命党に関係していたことから彼女までもツァーの官憲から危険人物扱いされたことがあるという、マダムNが何かの話から話しだした。彼女はしばらく日本にいて、今僕と同じようにやはりフランスへ行くのだった。
「まずどこかのホテルへ着いてですね。一番気持のいいのは、うその名刺でも本当の名刺でもとにかく名刺を一枚出しただけで、それっきり何一つ尋ねられることはないんでしょう。日本やロシアではとてもそんな訳には行きませんからね。」

 しかるに、このマダムNと一緒にマルセイユに上陸して、あるホテルに着いた時、フランスのこの自由はすぐさま幻滅させられてしまった。受付の男が活版刷の紙きれを持ちだして、そこへ何か書き入れろと言う。見れば立派な宿帳だ。しかも日本の宿帳なんかよりよっぽどうるさい宿帳だ。マダムと僕とは顔を見合した。そして二人で一々書き入れて行ったが、最後のカルト・ディダンティテ(身元証明書)の項で二人とも行きづまった。
「これは何でしょうね。」
 僕はマダムに尋ねた。
「さあ、何ですかね。」
 マダムもちょうどそこでペンを休めて考えていたのだ。
「いや、もしカルト・ディダンティテをお持ちでなければ、パスポオルでもいいんです。」
 二人は番頭にこう注意されながら、まだその「パスポオルでもいいんです」というのが何のことかよく分らなかった。が、ただそう書き入れればいいのだと分って、二人は二階の一室へ案内されて行った。
 マダムはそれだけのことでもういい加減その顔をくもらしていた。が、二人ともまだ、そのカルト・ディダンティテがどんなものかということはちっとも知らなかったのだ。
(前の「日本脱出記」の中では、パリで初めてこのカルト・ディダンティテの問題にぶつかったように言ってあるが、あの時にはまだどこをどうしてフランスにはいったかをその筋に知られたくなかったので、わざとああ書いたのだった。)
 その翌日(これも今となってはその日にちを明らかにしてもいいのだが、僕は一月五日にフランス船のアンドレ・ルボンというのに乗って上海を出て、二月十三日にマルセイユへ着いたのだった。)僕はマダムと別れて、リヨンへ行った。そこには僕の仮り国籍の同志が数名いて、僕はそれらの人達にあてた上海の同志からの紹介状を持っていたのだ。そしてヨーロッパにいる間その国籍の人間として通って行くには、まずそこの同志のいろんな厄介にならなければならなかったのだ。
 僕はパリへの旅を急いでいた。そしてこのリヨンには、またあとでゆっくり来るとしても、こんどは一晩か二晩とまってすぐパリへ立つ予定でいた。が、リヨンの同志はそれを許さなかった。
「ここには大勢僕等がいて、いろいろと便宜があるんだから、ここを君の居住地ときめて置いて、まずカルト・ディダンティテを貰って、それからどこへでも行くといい。」
 と言うんだ。僕は支那からフランスに来るという旅券しか持っていないので、さらにフランスからヨーロッパ諸国へ廻る旅券を貰う必要が
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