ョ貰えることにきまった。が、その後また幾度も会っているうちに、Tは新聞の内容について例の細かいおせっかいを出しはじめた。僕には、このおせっかいが僕の持って生れた性質の上からも、また僕の主義の上からも、許すことができなかった。そして最後に僕は、前の会議の時にもそんなことならもう相談はよしてすぐ帰ると言ったように、金などは一文も貰いたくないと言った。もともと僕は金を貰いに来たのじゃない。またそんな予想もほとんどまったく持って来なかった。ただ東洋各国の同志の連絡を謀りに来たのだ。それができさえすれば、各国は各国で勝手に運動をやる。日本は日本で、どこから金が来なくても、今までもすでに自分で自分の運動を続けて来たのだ。これからだって同じことだ。条件がつくような金は一文も欲しくない。僕はそういう意味のことを、それまでお互いに話ししていた英語で、特に書いて彼に渡した。
 Tはそれで承知した。そしてなお、一般の運動の上で要る金があればいつでも送る、とも約束した。が、いよいよ僕が帰る時には、今少し都合が悪いからというので、金は二千円しか受取らなかった。

 帰るとすぐ、僕は上海でのこの顛末を、まず堺に話しした。そして堺から山川に話しして、さらに三人でその相談をすることにきめた。そして僕は、近くロシアへ行く約束をして来たから、週刊新聞ももし彼等の手でやるなら任してもいい、また上海での仕事は共産主義者の彼等の方が都合がいいのだから、彼等の方でやって欲しい、と附け加えて置いた。が、それには、堺からも山川からも直接の返事はなくて、ある同志を通じて、僕の相談にはほとんど乗らないという返事だった。
 で、僕は、以前から一月には雑誌を出そうと約束していた近藤憲二、和田久太郎等のほかに、近藤栄蔵(別名伊井敬)高津正道等と一緒に、週刊『労働運動』を創めた。前の二人は無政府主義者で、後の二人は共産主義者なのだ。近藤栄蔵は、大杉等の無政府主義者とはたして一緒に仕事をやって行けるか、という注意を堺から受けたそうだが、かえって彼はそれを笑った。僕も一緒にそれを笑った。
 最初から僕は、この新聞はこれらの人達の協同に、全部を任せるつもりでいた。僕は仕事の目鼻さえつけば、すぐロシアへ出発する筈にしていたのだ。が、その仕事も始めないうちに、僕は病気になった。ずいぶん長い間そのために苦しんで、そしてしばらく落ちついて
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