兵十名ばかりとのほかに、十五、六名のロシア人がいた。そして僕がさっそく仲間になったのは、このフランスの水兵の中の一人と、ロシア人の中の若い学生十人ばかりとだった。
フランスの水兵は、揚子江上りの砲艦に乗っていたのだが、満期になって国へ帰るのだった。始終一緒になって、何かの鼻歌を歌いながら、デッキの上を散歩していた。その中に一人、いつもみんなとは別になって、どこかの隅に坐って本を読んでいる、まだごく若い利口そうな顔つきをした男がいた。
僕はまずその男とすぐ知りあいになった。フランス語の会話のけいこにと思って、ボンジュル・ムッシュ(こんにちは)とか何とか話しかけたのがもとだった。
僕は年は二十八、社会学専攻の一学生、労働問題研究のためのフランス留学、という触れこみだった。したがって、その水兵との話は、お互いの身分や行くさきの問答のあとで、すぐフランスの労働運動のことにはいった。
彼自身が何等かの運動に加わっていたのでもなし、また特別に研究したというほどでもないので、その話から得るところといっては何もなかった。が、この男の、兵役や戦争に対する峻烈な攻撃は、その身分がらずいぶん面白く聞いた。
「ヨーロッパの大戦だって、もう半年か一年続いて見たまえ。フランスなんぞはすぐ滅茶苦茶につぶれてしまったんだ。(五行削除)」
二
(三十一字削除)この水兵の話やまたその後フランスへ行ってからのいろんな人達の話で、そのずいぶん範囲の広かったことや大げさだったことに驚いた。
そのために殺されたものもかなり多い。また牢にはいって今まだそこにいるものも大ぶある。そしてまた、今でもまだ逃げ廻って、日蔭者でいるものも少なくはない。
そして戦争中のこれらのいわゆる犯罪人や、またその後の反動政治の犠牲等のための大赦運動が、前々からもまた僕が行っている間にも、盛んに行われていた。しばしば示威運動もあった。メーデーの要求の中にもそれが大きな一個条になっていた。
政府は幾度か大赦の約束をした。が、それはいつもただ約束だけのことだった。
水兵のジャン君が話した、いわゆる Mutins《ミュテン》 de《ド》 La《ラ》 Mer《メエル》 Noire《ノワル》(黒海の謀叛人)の首領、共産党の何とかという男は、まだ牢にはいっていたが、僕がフランスを出る数日前に、パリ近郊の下院代議士補欠選
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