アとはないか。」
「何にもありません。」
「それじゃその事実を全部認めるんだな。」
「そうです。」
それで問答はおしまいだ。検事は何も言うことがないと見えて、黙って裁判長にうなずいた。
そして弁護士が二十分ばかりそのお得意の雄弁をふるったあとで、
「よろしい。禁錮三週間。罰金いくらいくら。次は何の誰……」
裁判長がそう判決を言い渡すと、僕等のうしろに立っていた巡査の一人が、さあ行こうと言って一緒にそとへ連れて出た。
フランスでは、未決拘留の日数は三日間をのぞいたあとをすべて通算する。で、僕はその日に満期となって、翌日は放免の訳だ。
あっけのないことおびただしい。
裁判所の下の仮監では、この日同じ法廷で裁判される四、五人の男と一緒にいた。
裁判の始まるのを待つ間、みんなガヤガヤと自分の事件についての話をしあっていた。実はこうこうなんだが、そこをこう言ってうまく逃げてやろうと思うんだとか。いや、実につまらん目にあいましてな、こうこう言うつもりのがついこんなことになってしまいましてとか。なあに、そんなことなら何でもない、せいぜい三月か四月だとか。話は日本の裁判所の仮監のとちっとも違いはない。そしてその大がいは、何百フランとか何千フランとかをどうとかしたという、金の話ばかりだ。それも、ちょっとした詐偽だとか、費いこみだとかの、ちっとも面白くない話ばかりだ。
で、僕は黙って、薄暗い室の中の壁の落書を、一人で調べていた。
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A bas l'avocat officiel !(くたばっちゃい官選弁護士の野郎)
[#ここで字下げ終わり]
というのが二つ三つある。その他は牢やの監房で見たのと同じようなことばかりだ。女房の誰とかを恋するとか、生命にかけてブルタニュ女の誰とかを崇めるとかいうのも、幾つも書いてあったが、その女房かブルタニュ女かの肖像をなかなかうまく描いているのもあった。変な猥※[#「褻」の「熱−れんが」に代えて「執」、113−3]な絵もあった。
そんなのを一々詳細に読んで行く間に、
「おい、君は何だ、泥棒か。」
と、僕の肩を叩く奴がある。さっきからしきりに、みんなに、君は幾カ月、君は幾カ月と刑の宣告をしている、前科幾犯面の奴だ。
「あ、まあそんなものだね。」
といい加減にあしらってやると、
「そうか、何を盗んだんだ。君は安南人
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