ェから吹聴して歩くほどの一大事でもないのだ。また自由恋愛などという、もうカビの生えた古臭い議論を、今さらながらもったいらしく担ぎ出すこともないのだ。
 けれども、もし世間の奴等が、奴等の道徳を盾に着て、無知な群集の前に僕等を社会的に葬むり去ろうとでも試みようとならば、ご遠慮なく遣って見るがいい。僕等は、僕等自身の事実をますます健実にして奴等にいやというほど見せつけてやるとともに、いくらでもお相手になってやる。あるいは、かえってその方が、さきの五年か十年かすればという時期を、もっと早めてくれることになるかも知れない。
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 (ここでちょっと読者諸君に広告して置くが、前に野枝さんの手紙に出ている、はなはだおやすくない、ただし定価のことでない、僕の論文集『生の闘争』の中の「羞恥と貞操」および『社会的個人主義』の中の「男女関係の進化」と「羞恥と貞操」とは、これらの問題についての僕の宿論を説いたものであるから、ぜひとも御一読を願います。)
[#ここで字下げ終わり]

         五

 さて、野枝さん。
 思わず妙なところに力瘤を入れてしまったが、ここまで自分等の思うことを仕遂げて来た僕等は、さらに翻って、僕等のいわゆる犠牲者となった人達のことを考えて見なければならない。そして僕等はその人達のことを考えるに当って、僕等自身の心持をもって律することなく、やはりその人たち自身の現実にまで降って見なければならない。
 まず女の人達のことにのみついて言えば、君は保子と神近という二人のいわゆる犠牲者を出した訳だ。もっとも神近は、最初は保子を犠牲者の地位に陥しいれて、さらに君のために、こんどは自分が犠牲者になったのだが、したがって神近は、保子に対する心持と、君に対する心持との間に、単にこの地位の上からのみでも、よほどの差異を持っていた。さきに僕が、君の他の女に対する心持の進みかたと、他の女の君に対する心持の動きかたとに、自ずから相異するところがあると言ったのは主としてこの地位の上にもとづくものを指したのだ。さらに分りやすく言えば、人の亭主もしくは愛人をねとった女と、その男をねとられた女との心持の差異である。
 君は、自分が僕の愛を一番多く持っているということに、自分の安心があるのではないかということを、絶えず怠らずに反省している、と言う。しごく結構なことだ。しかし、なおそれと同時に、君が一番最後に僕のところに来たんであるということをも、十分に考えて見なければならない。現に神近は、平気で人の亭主をねとって置きながら、その男をさらに他の女にねとられて、急に騒ぎ出した。男を殺してしまうとまで狂い出した。それでもなお神近は、ついに自分をしっかりと握って、再び起ちあがることができた。これは、神近には反省と思索とのかなりのトレーニングがあった上に、経済上に独立しているという強味もあり、それらの点からははなはだ好都合な地位にいたのだが、なおかつ人を殺し自分も死ぬといういったんの決心までも経た後の、そしてまたさらに二カ月間の火の出るような内心の苦闘の後の、ようやくのことであった。神近の話が出たからついでに言って置くがさきに抜き書をした君の手紙の中に、「この気持は、たぶん私とあなた以外の誰にも、本当は理解のできない気持ではないでしょうか」とあったが、いや、神近はすでに君よりも以前に、君が最後に到達した点にまで立派に進んでいたのだ。そして神近は、出るところへも出ずになるべく保子とは顔も合わせないようにして、保子のことはただ僕に任せて置いたのだ。
 保子は、自分の亭主を、しかも二人の女に寝とられた女である。
 保子のことについて考える時には、第一番にまず、このことをしっかりと念頭に置いてかからねばならない。そして、彼女から亭主を寝とった君や神近は、自分等の考えの進みかたのえらさ[#「えらさ」に傍点]によほどの割引きをして反省しなければならないとともに、なお保子の態度について物を言う時には、よほどの遠慮がなくてはならない。
 保子は、諸君のごとき反省や思索のトレーニングのない、無教育な女だ。しかし彼女は、生じっか学問のある女よりは、よほどよく物事の分る女だ。むずかしい理屈を言うことはとても諸君に及びもつかないが、世俗のことについてならば、諸君なぞはとても彼女の足もとにも及び得るものでない。それに彼女は、ふだんはずいぶんやさしいおとなしい女であるのだが、それでいて、なかなかに意地もあり張りもある女である。
 しかるに彼女は、こんどのことのあって以来、急に意地も張りもなくして、愚痴といやみ[#「いやみ」に傍点]の、分からずやになってしまった。何事に対してでもずいぶん思い切って無茶をやる僕の心情については、従来は本当によく理解していてくれたのだが、こんどばかりは、まったくの盲目になってしまった。そして、ただもう、僕のいわゆる乱行にあきれ返っている態だ。
 と言っても、必ずしも、いつもそうだという訳ではない。僕がこんな乱行をやるようになった動機についても、またその他の僕のこの六カ月間の私行の動機についても、心の奥底では決して分っていないのではない。なるほど、彼女には、明らかに口に出して、それを説明することはできないかも知れない。しかし彼女の僕に対する愛は、彼女にそれを直覚させないではいない筈だ。現に、僕のこの乱行の間に僕に対する彼女の態度には、この直覚から出た彼女の態度には、僕は彼女に感謝しなければならない多くのものを見ている。
 また、君に対する彼女の心持とても、必ずしも例の「狐さん」ばかりでいつも充たされているのではない。君は、御宿へ行く時に僕の財布から少々の金を持って行ったことを、彼女が君を軽蔑しあるいは自らを不安に思っていやしないかと心配しているようだったが、彼女とてもそれほどの馬鹿ではない。新聞記事などによって余計な推測をしてはいけない。彼女はまた、そのことをもってただちに、君が「働きのない」辻を去って、「働きのある」僕のところへ、「妾になって来たのだと言われても仕方がない」などと考えるような、そんなさもしい[#「さもしい」に傍点]心の女ではない。真新婦人西川文子君の談話だというこの新聞記事も、恐らくは、例の黄色新聞記者のいい加減な捏造に過ぎないのであろう。保子だって、君のことは、相応に尊敬している。
 野枝さん。
 僕の乱行と無茶、この六カ月間ばかりの僕の生活の動機については、少なくとも君や神近は、明らかに理解していてくれる。本当を言うと、まずこの動機のことから詳しく書き始めなければ、僕のこの頃の行動については、何にも本当には理解することができないのであるが、いわゆる苦労人の先輩とか友人とかの冷笑するがごとく、今はまず、「自棄酒を呑んで女に狂っているのだ」として置いてもいい。苦労人なぞというものは、せいぜい、そのくらいのことを言っていればお役目は済むのだ。

         六

 だが、野枝さん。
 それはそうとして、保子のことに話を戻そう。要するに保子は、僕に対する愛と理解とを持ちつつ、また僕からの愛も感じつつ、時々にその愛や理解を掩いかくしてしまうあるものに襲われるのだ。そしてそのたびごとに、僕や君やまたは神近に対する、彼女の盲目と醜悪とを現すのだ。けれども、彼女のこの盲目と醜悪とが、彼女にとって、なぜ無理なのだろうか。
 野枝さん。
 僕は繰返して言う。彼女は、その亭主を、しかも二人の女に寝とられた女である。その亭主および二人の女に対する、彼女の嫉妬や恨みや、いやみや皮肉が、なぜ無理なのだろうか。それをしも、単に彼女の盲目とか醜悪とか言って、その亭主および二人の女は済ましていられることだろうか。
 彼女は、諸君と同じく、愛かしからずんば嫉妬かの、幾千年幾万年の習慣の中に育って来た女である。愛を奪われたと思う時の、その嫉妬に、何の不思議があろう。彼女は、諸君と同じく、男の腕にすがって生活する、幾千年幾万年の習慣の中に育って来て、しかもまだ、諸君のごとくにはそこから抜け出ることのできない女である。男を奪われたと思う時の、その絶望に、何の不思議があろう。しかも彼女には、本当に安心して頼るべき親戚もなく友人もなく、そして彼女自身は、いわゆる不治の病を抱いて、手荒らな仕事の何一つできないからだでいるのだ。
 それでもなお彼女は、そのあらん限りの力をもって、彼女自身を支えようとしているのだ。彼女自身を救おうとしているのだ。心の奥底に感じている僕の愛を確かめて、そして自分は何等かの職業によって自分自身の支柱を得ようとしているのだ。
 野枝さん。
 君は、先日の手紙によって、すなわち保子に対する君の心持を書いてよこした手紙の僕の返事によって、保子に対する僕の心理の告白によって、君はすっかり泣かされてしまったと言う。僕自身も保子の悲哀を見るたびに、またそのことを思うたびに、とても堪えられないほどの苦痛に攻められるのだ。本当に幾夜泣きあかしたか知れない。
 野枝さん。
 君は、どんなに僕が、保子に対して残酷であったかを知っているか。僕は、これほどまでに保子の心持を理解していたのに、そしてまた、彼女のいわゆる盲目や醜悪についての僕自身の十分な責任を感じていたのに、どうしても僕は、彼女に対して残酷な態度に出でなければならなかったのだ。彼女のいわゆる盲目や醜悪を見せつけられると、それの嫌悪に堪え得られないのと、および恐らくはその責任を感じることに堪え得られないのとで、いっさいを忘れて憤怒に捉えられてしまう。彼女のいわゆる盲目と醜悪とによって、僕自身までが、本当の盲目と醜悪とに陥ってしまう。
 彼女は号哭する。そして僕もまた、彼女の側に倒れて、歔欷する。
 野枝さん。
 かくして僕は、彼女がしきりに確かめたがっている、彼女の心の奥底に感じている僕の愛を、僕自ら打ち破ってしまうのだ。そして彼女のいわゆる盲目と醜悪とを、ますます重ねしめかつますます増さしめて行くのだ。
 野枝さん。
 本当に僕は、君の言うように、しばしば、保子によく話しすることが面倒になるのだ。どうでもいいというような態度に出るのだ。
 野枝さん。
 本当によく僕を鞭うってくれた。今から僕は四谷の家へ行って、そしてあしたは、君の足下に膝まずきに行く。



底本:「日本の名随筆47 惑」作品社
   1986(昭和61)年9月25日第1刷発行
   1991(平成3)年4月25日第8刷発行
底本の親本:「大杉栄全集 第三巻」現代思潮社
   1964(昭和39)年4月発行
入力:渡邉つよし
校正:門田裕志
2002年11月12日作成
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