男女関係について
女房に与えて彼女に対する一情婦の心情を語る文
大杉栄
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)J'avoue《ジャヴウ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)進みかたのえらさ[#「えらさ」に傍点]に
〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)時には、〔J'avoue《ジャヴウ》 … lui《リュイ》〕(私ね、
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
http://aozora.gr.jp/accent_separation.html
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一
野枝さん。
『女の世界』編集長安成二郎君から、保子に対する僕の心持を書いてくれないか、という注文があったので、ちょうど今このことについて君と僕との間に話の最中でもあり、それに君に話しかけるのが僕には一番自由でもあるので、君に宛ててこの手紙を書くことにする。世間の奴等には、堪らないおのろけとも聞えることを書くようになるかも知れないが、堪ろうと堪るまいと、それは僕等の知ったことじゃない。
野枝さん。
君も、ずいぶんわからずやの、意地っ張りであったね。二月のいつであったか、(僕には忘れもしない何月何日というようなことは滅多にない)三年越しの交際の間に初めて自由な二人きりになって、ふとした出来心めいた、不良少年少女めいた妙なことが日比谷であった以来「なおよく考えてごらんなさい」と言って別れて以来、それからその数日後に偶然神近と三人で会って、僕のいわゆる三条件たる「お互いに経済上独立すること、同棲しないで別居の生活を送ること、お互いの自由(性的のすらも)を尊重すること」の説明があって以来、君はまったく僕を離れてしまった形になった。
君には、この「性的のすらも」ということが、どうしても承知できなかったのだ。僕には保子という歴とした女房があることも知ってい、神近という第一情婦(『万朝報』記者からの名誉ある命名)のあることも知ってい、そしてまた自分にも辻という立派な亭主のあることも忘れていた訳でなく。(三行削除)
もっとも、過って改むるに憚ることなかれ、とも言う。もし君が、世間での評判のように、きわめて動揺しやすい、いわゆる出来心的の女であったのであらば、すなわち僕とのあのこともほんの一時の浮気であったのであらば、過って改むるに何の憚るところがあろう。(二行削除)
「私は大杉さんが大好きであった。しかし決して惚れていた訳ではない。」惚れていた、などという言葉は使わなかったろうが、とにかくこんな意味のことを、君はよく人に話したそうだ。話は横道へそれるが、ヴォルテールの哲学事典の「姦通」の項を開いて見ると、これとちょっと似た面白いことが書いてある。
「善良な夫婦者は、今ではもう、そんな卑しい言葉は使わない。姦通などと言う言葉は、決して口にすらも出さない。女が、その友人達に自分の姦通のことを話す時には、〔J'avoue《ジャヴウ》 que《ク》 J'ai《ジェ》 du《デュ》 gou:t《グウ》 pour《プウル》 lui《リュイ》〕(私ね、本当は、あの方が好きなの)と言う。もっとも、昔は、尊敬している、とも言ったものだ。ところが、ある金持ちの女房が、ある役人に多少の尊敬を持っていることを、坊さんに懺悔した。するとその坊さんが、〔Madame《マダム》, combien《コンビエン》 de《ドウ》 fois《フォア》 vous《ヴウ》 a−t−il《ザテイル》 estime'e《エスティメ》 ?〕(奥さん、その人は、幾度あなたを尊敬しましたか)と問い返したので、それ以来身分のある女は、何人をも尊敬しないようになり、また懺悔にもあまり行かなくなった。」
野枝さん。
君は、本当は、僕が大好きであったのだ。けれども、その大好きなことと、君の、と言うよりはむしろ女の、もっとも男にもそんなツラ付をする奴もあるが、数千年もしくは数万年の強制と必要とから本能のような感情になった貞操観とが、君の心の中で闘った。そしてその闘いの間、君の生れつきの大の意地っ張りは、本能的感情の方に味方して、出来心らしい感情の方を無理やりに圧えつけようとした。君は、僕のことを、大嫌いだとまで言うようになった。いろいろと難くせをつけては、盛んに僕を罵倒した。
あの、ちょっとした文章なり顔色なりを見て、すぐさまその人の心の奥底を洞察することにおいて、まさに天下一品とも称すべき批評家、僕はよくあの男のことをこんなふうに評価して多くのあきめくら作家どもから笑われるのだが、しかし君だけは真面目に同意してくれた、あの中村孤月ですらも、(もっともこの洞察も、まかり間違うと、ことに自分の利害と衝突する事柄にでも向うと)しばしばはなはだしい的はずれのウガチに過ぎなくはなるが、一時は君の言葉にだまされて、喜んでその吹聴をして歩いたという話だ。
僕は、男としての器量を、まったく下げてしまった訳だ。ひとかどの異端評論家(『国民新聞』記者命名)、サニズムの主唱者(『時事新報』記者命名)、社会主義研究者(『万朝報』記者命名)と人も許し自分も許していた大の男が、新しい女なぞというアバズレの小娘に、見事背負投げを食わされた形になったのだ。
野枝さん。
しかし、さすがに僕ひとりだけは、本当の君を知っていた。君を大好きな僕に、僕を大好きの君の心がわかるのに、何の不思議はない。堪ろうと堪るまいと、それは僕等の知ったことじゃないとも言ったが、あんまりおのろけを言うのも、まだ少々気はずかしいような気もするので、このことはこの一句だけで止して置こう。君が、そんなふうでカラ威張りに威張っている間に、ロクに飯も食べずに、だんだん痩せ衰えて行った事実は、もっともこれは君ばかりの事実ではなく僕にもそうではあったが、いずれ君の筆でどこかに発表されることと思う。
二
野枝さん。
けれども、かのいわゆる本能的感情を打破った以来の君は、実に目ざましいほどの、君自身にも僕にも少々驚くほどの、そして本当の君を見ることのできなかった諸友人には何のことやら訳もわからぬほどの、力と速度とで、まっしぐらに、しかし眼を大きく開いて、君の出来心に進んで行った。
先月の最終日、君が御宿に行った翌日、二度目の君の手紙に言う。
「ひどい嵐です。ちょっとも外には出られません。本当にさびしい日です。けれど今日、さっきあなたに手紙を書いた後、大変幸福に暮しました。何故かあててごらんなさい。言いましょうか。それはね、なお一層深く愛の力を感じたからです。本当に、こないだ、あなたに言いましたね。あなたの御本だけは持って出ましたって。今日は朝から夢中になって読みました。そしてこれがちょうど三,四回目ぐらいです。それでいて、なんだか初めて読んだらしい気がします。
「あなたには、前から幾度も書物を頂くたびに、ぜひ何か書きますってお約束ばかりして何にも書きませんでしたわね。私は書きたくってたまらない癖にどうも不安で書けませんでしたの。それは、本当にあなたのお書きになったものを普通に読むという輪廓だけしか読んでいなかったのだということが、今日はじめてはっきり分りました。
「何という馬鹿な間抜けな奴と笑わないで下さい。私が無意識のうちにあなたに対する私の愛を不自然に押さえていたことは、思いがけなく、こんなところにまで影響していたのだと思いましたから、私は急に息もつけないようなあなたの力の圧迫を感じました。けれども、それが私には、どんなに大きな幸福であり喜びであるか分って下さるでしょう。
「あんなに、あなたのお書きになったものは貪るように読んでいたくせに、本当はちっとも解っていなかったのだと思いますと、何だかあなたに合わせる顔もない気がします。けれどもそれは本当のことなのですもの。そしてあなたはそれをとがめはなさらないでしょうね。今日本当に解ったのですもの。
「そして、また私には、あなたの愛を得て、本当に解ったということは、どんなにうれしいことか解りません。これからの道程だって本当にたのしく待たれます。今夜もまたこれから読みます。一つ一つ頭の中にとけてしみ込んで行くのが分るような気がします。もう二、三日ぐらいはこうやっていられそうです。一杯にその中に浸っていられそうです。
「でも、何だか一層会いたくもなって来ます。本当に来て下さいな、後生ですから。嵐はだんだんひどくなって来ます。あんな物すごいさびしい音を聞きながら、こんな広い二階にひとりっきりでいるのは可哀そうでしょう。でも、何にも邪魔をされないで、あなたのお書きになったものを読むのは、たのしみです。本当に、静かに、おとなしくしていますよ。でも、ちょっとの間だってあなたのことを考えないではいられません。こうやっていますと、いろいろな場合のあなたの顔が一つ一つ浮んできます。
「わずか一週間ばかりの間の私自身の気持を考えてみますと、その変りかたのひどいのに自分ながら不思議がっています。こうやっていましても、会いたいと思い出すと堪らなく会いたいのですけれど、何の不安も動揺も感じません。他の二人の方に対しても自分に対しても。こうやって書いていますと、いくらでも書けそうですから、もう止めましょう。止めようと思いますと、嵐の音が気になって来ます。東京もこんなにひどいのでしょうか。ここはまともに当てますから雨戸を開けて置くこともできないのです。一時間でも早くお目に懸かれるようにして下さい。お願致します。」
野枝さん。
君に宛てる手紙の中に、こうして君からの手紙を抜書きするのも可笑しいが、この手紙は世間の奴らにも見せるのだから、これだけのことは言って置かないと、僕としては本文にとりかかり難い。
ついでに、ではない、これも話の順序として是非書いて置かなければならないことなので、もう一つ君の手紙を拝借する。それは、今の手紙の翌日、僕からの第一の手紙の返事として、君が三度目に書いたものの一節だ。僕は、二十九日に君を両国に送ってから、ある本屋からこんど出す『男女関係の進化』の印税の一部分を受取って、それを持って四谷の保子のところへ行った。もう夜の十二時を過ぎてもいたのですぐ床にはいった。「今、野枝さんを停車場まで送って来たところだ」と言うと、保子は例の通り「あの狐さんは……」とまた君に対するいやみを並べ立てようとした。僕は手を延ばして、保子の口を圧えたまま、眠ってしまった。僕はこんなことを君に書き送ったのであった。すると君からの返事に言う。
「保子さんが私のことを狐ですって、ありがたい名を頂いたのね。はじめてです、そんな名を貰ったのは。私は保子さんには好意を持たないかわりに悪意も持っていませんから、何を言われても何ともありません。
「ただ私は、私のあなたと保子さんのあなたとは違う、ということだけを思っています。そして保子さんに対するあなたは認めて尊敬しますけれども、保子さんがあなたに対する自分をもう少し確かにしてあなたを理解して下されば、私は心から保子さんを尊敬することができるだろうと思います。けれども、それが保子さんにできないからといって、私は保子さんを馬鹿にしたり軽蔑したりするほどあなたを無理解ではいないことを申して置きます。どうぞ保子さんにできるだけよくして上げて下さいという私の言葉を真直ぐに受け入れて下さい。これは何の感情もまじえない私の本当の言葉であることをあなたは認めて下さるでしょう。
「そして私が自身でさえも驚くほどのところまで進み得たということを、私と一緒にきっとよろこんで下さることと信じます。この気持は、しかし、たぶん私のあなた以外の誰にも、本当には理解できない気持ではないでしょうか。本当に私は、あなたに、この強情な盲目な私をこんなところにまで引っぱって来て頂いたことを、何と感謝(いやな言葉ですけれども)していいか分りません。何だか私のこれからの道が、明るく、はっきり開けて来たように思われます。」
三
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