はただ諸君の姿さえ拝まして貰えればいいんだ。久しぶりでそとへ出て、見るものがすべて美しい。というよりは珍らしい。すべてがけばけばしく生々として見える。ことに女は、女でさえあれば、どれもこれも、みな弁天様のように美しく見える。
馬車では、僕はいつも、前か後ろかの一番はじに置かれた。このはじにいなければそとはよく見えない。横はよろい戸になっていて、前後にだけ小さな窓の金あみが張ってある。僕は馬車に乗っている間、始めから終りまで、この金あみに顔を押しつけて、額に赤く金あみのあとがつくほどに、貪るようにしてそとを眺めた。
面会に来る女の顔も美しい。もう幾年も連れ添って見あきるほど見た顔だのに、黙ってその顔を眺めているだけでもいい気持だ。眼のふちの小皺や、まだらになった白粉のあとまでが艶めかしい趣きを添える。
僕の故郷[#「僕の故郷」は太字]
こんなちょいちょいしたエピソードのほかには、うちにいる間は、読書か思索か妄想かのほかに時間の消しかたがない。
読書にも飽き、思索にも飽きて来ると、ひとりでに頭が妄想に向う。それも、そとの現在のことはいっさい例の無意識的にあきらめて、考えても仕方のない遠い過去のことか、出獄間近になれば出てからの将来のことなどが思い浮べられる。
現在の女房のことでも、面会に来るか手紙が来るかの時でもなければ、それも二カ月に一度ずつしかないのだが、滅多には思い出さない。そして古い女のことなぞがしきりに思い出される。
元来僕には故郷というものがない。
生れたのは讃岐の丸亀だそうだ。が、生れて半年経つか経たぬうちに東京へ来た。そして五つの時に父や母と一緒に越後の新発田へ逐いやられた。東京では父は近衛にいた。うちは麹町の何番町かにあった。僕はその近衛連隊の門の様子と、うちの大体の様子と、富士見小学校附属の幼稚園の大体の輪画とのほかには、ほとんど何の記憶もない。
僕の元来の国、すなわち父祖の国は、名古屋を西にさる四、五里ばかりの津島に近いある村だが、そこには自分が覚えてからは十四の時に初めてちょっと伯父の家を訪うて、その翌年名古屋の幼年学校にはいってから時々ちょいちょい遊びに行ったに過ぎない。少しも自分の国というような気はしない。本籍はそこにあったのだが、その後東京の自分の住んでいた家に移した。
ただ越後の新発田だけには、五つから十五までのまる十年間いた。その後も十八の時までは毎年暑中休暇に帰省した。したがってもし故郷と言えばそこを指すのが一番適切らしい。
名古屋から初めて暑中休暇に新発田へ帰る途で、直江津から北越鉄道に乗換えて長岡を越えて三条あたりまで行った頃かと思う。ふと僕は、窓の向うに、東北の方に長く連らなっている岩越境の山脈を眼の前に見て、思わず快哉を叫びたいほどのあるインスピレーションに打たれた。その山脈は僕がかつて十年間見たそのままの姿なのだ。そしてそのあちこちには、僕がかつて遊んだ、幾つかの山々が手にとるように見えるのだ。
初めて僕は故郷というものの感じを味わった。
「故郷はインスピレーションなり」と言った蘇峰か誰かの言葉が、初めて身にしみて感じられたが、嬉しさのあまり、その時にはまだ、これが故郷の感じだという理知は、その感じの解剖は、本当にはできていなかった。蘇峰か誰かの言葉というのも、どうやら、その後のある時に思い出したもののようだ。
この故郷の感じは、その「ある時」になって、再び十分に味わった。そしてこれがいわゆる故郷の感じだということは、その「ある時」になって、初めて十分に知った。
初め半年ばかりいて、出てからまだ二月とは経たぬうちに、再び巣鴨へやられた時のことだ。巣鴨のあの鬼ヶ島の城門を、護送の看守が「開門!」と呼ばわって厚い鉄板ばかりの戸を開かせて、敷石の上をガラガラッと馬車を乗りこませた時だ。
僕はいつものように、馬車の中の前のはじに腰をかけて、金あみ越しにそとを眺めていた。門が開くと監獄の前の、広い前庭の景色が眼にはいった。その瞬間だ。僕は思わず腰をあげて、金あみに顔を寄せて、建物のすぐ前に並んでいる桧か青桐かの木を見つめた。そしてしばらく、と言っても数秒の間だろうが、あの一種の感に打たれてぼんやり腰を浮かしていた。それに気がつくと、すぐに僕は、かつて帰省の途に汽車の中で打たれたかのインスピレーションを思い出した。ちっとも違わない、同じ親しみと懐かしさとの、そして一種の崇高の念の加わった、インスピレーションだ。
僕は初めて、これが本当の故郷の感じなのだ、あの時のもやはりそうだったのだ、と本当に直覚した。
馬車から降りる。何一つ親しみと懐かしみとの感ぜられないものはない。会う看守ごとに、
「やあ、また来たな」と言われるのすらも、古い幼な友達か何かの、暖かい挨拶に聞える。そしていよいよ、前にいた例の片輪者の建物に連れて行かれて、お馴染のみんなのにこにこした目礼に迎えられて、前にいた隣りの室に落ちついた時には、本当に久しぶりで自分のうちへ帰ったような気持がした。
監獄を自分の故郷や家と同じに思うのは、はなはだ怪しからぬことでもあり、またはなはだ情けないことでもあるが、どうも実際にそう感じたのだから仕方がない。巣鴨は僕が初めて既決囚として入監させられた、したがってもっとも印象の深い生活を送らせられた監獄だ。それに囚人は、他のいっさいの世界と遮断されて、きわめて狭い自然ときわめて狭い人間との間に、その情的生活を満足させなければならないからだ。かてて加えて、囚人の生活は、とかくに主観に傾きがちのすこぶる暗示を受けやすい、そのいっさいのきわめて深い点において、たしかに獄外での普通の生活の十年や二十年に相当する。
この故郷のことが、自分の幼少年時代のことが、しきりに思い出される。ことに刑期の長かった千葉ではそうだった。
僕は出たが、どうせ当分は政治運動や労働運動は許されもすまいから、せめては文学にかこつけて、平民文学とか社会文学とかの名のつく文芸運動をやって見ようかと思った。そしてその手始めに、自分の幼少年時代の自叙伝的小説を書いて見ようかと思った。軍人の家に生れて、軍人の周囲に育って、そして自分も未来の陸軍元帥といったような抱負で陸軍の学校にはいった、ちょっと手におえなかった一腕白少年が、その軍人生活のお蔭で、社会革命の一戦士になる。というほどのはっきりしたものではなくても、とにかくこの径路をその少年の生活の中に暗示したい。少なくとも、自分の幼少年時代のいっさいの腕白が、あらゆる権威に対する叛逆、本当の生の本能的生長のしるしであったことを、書き現して見たいと。
僕は自分の遠い過去のことを思い出してはこの創作の腹案に耽った。そしてそのかたわら、語学の稽古がてらに、原文のトルストイの『幼年時代、少年時代、青年時代』や、ドイツ訳のコロレンコの『悪い仲間』などを見本に読んだ。トルストイのには、その生活があまりに僕自身のとはかけ離れているので、ほとんど何の興味もひかなかった。『悪い仲間』にはすっかり同感した。その主人公の父は裁判官であった。裁判官と軍人とに大した違いはない。が僕には不幸にも、裁判官がどんな性質のものであるかを教えてくれる、友達の乞食の父はなかった。そのために僕は、軍人というものの本当の性質が分るまでには、ずいぶん余計な時間を費やした。それがその時の僕にどれほどに口惜しかったか。
が、当時のこの創作欲は今に到ってまだ果されない。というよりはむしろほとんど忘れ果てて、社会評論とも文学評論ともつかない妙な評論書きになってしまった。そして今ではまた、こんな甘い雑録に、ようやく口をぬらしている。
監獄人[#「監獄人」は太字]
しかし、今だってまだ、多少の野心のないことはない。現にこの「獄中記」のごときは、この雑誌に書く前には、「監獄人」とか「監獄でできあがった人間」とかいうような題で、よほどアンビシャスな創作にして見ようかという気もあったのだ。
僕は自分が監獄でできあがった人間だということを明らかに自覚している。自負している。
入獄前の僕は、恐らくはまだどうにでも造り直せる、あるいはまだ碌にはできていなかった、ふやふやの人間だったのだ。
外国語学校へはいった初めの頃には、大将となって何とかすることができなければ、敵国に使して何とかするというような支那の言葉に囚われて、あるいは外交官になって見ようかという多少の志がないでもなかった。また、学校を出る当座には、陸軍大学の教官となって、幼年学校時代の同窓等に、しかもその秀才等に「教官殿」と呼ばして鼻を明かしてやろうかというような子供らしい考えがないでもなかった。学校を出てからも、僕の旧師でありかつ陸軍でのフランス部の[#「フランス部の」はママ]オーソリティであった某陸軍教授を訪ねて、陸軍大学への就職を頼んだこともあった。その話がよほど進行している間に、しかもその教授の運動の結果を聞きに行く筈の日の数日前に、電車事件で投獄された。そしてこの事件の投獄とともにその後の運命はきまってしまった。
そればかりではない、僕の今日の教養、知識、思想性格は、すべてみな、その後の入獄中に養いあげられ、鍛えあげられたと言ってもよい。二十二の春から二十七の暮れまでの獄中生活だ。しかも、前に言ったように、きわめて暗示を受けやすい心理状態に置かれる獄中生活だ。それがどうして、僕の人間に、骨髄にまでも食い入らないでいよう。
故郷の感じを初めて監獄で本当に知ったように、僕の知情意はこの獄中生活の間に初めて本当に発達した。いろいろな人情の味、というようなことも初めて分った。自分とは違う人間に対する、理解とか同情とかいうようなことも初めて分った。客観はいよいよますます深く、主観もまたいよいよますます強まった。そしていっさいの出来事をただ観照的にのみ見て、それに対する自己を実行の上に現すことのできない囚人生活によって、この無為を突き破ろうとする意志の潜勢力を養った。
僕はまた、この「続獄中記」を、「死処」というような題で、僕が獄中生活の間に得た死生問題についての、僕の哲学を書いて見ようかとも思った。現に、一と晩夜あけ近くまでかかって、その発端だけを書いた。
東京監獄で押丁を勤めていて、僕等被告人の食事の世話をしていた、死刑執行人についての印象。友人等の死刑後のその首に残った、紫色の広い帯のあとについての印象。千葉監獄在監中の、父の死についての印象。一親友の死についての印象。また、牢獄の梁の上からぽたりぽたりと落ちて来る蠅の自然死についての印象。一同志の獄死についての印象。一同志の出獄後の狂死についての印象。その他数え立てればほとんど限りのない、いろいろな深い印象、というよりはむしろ印刻が、死という問題についての僕の哲学を造りあげた。
実際僕は、最後に千葉監獄を出た時、初めて自分がやや真人間らしくなったことを感じた。世間のどこに出ても、唯一者としての僕を、遠慮なく発揮することができるようになったことを感じた。そして僕は、僕の牢獄生活に対して、神の与えた試練、み恵み、というような一種の宗教的な敬虔な感念を抱いた。
牢獄生活は広い世間的生活の縮図だ。しかもその要所要所を強調した縮図だ。そしてこの強調に対するのに、等しくまた強調された心理状態をもって向うのだ。これほどいい人間製作法が他にあろうか。
世間的生活は広い。いくらでも逃げ場所はある。したがってそこに住む人間の心はとかくに弛緩しやすい。本当に血の滴るような深刻な内面生活は容易に続け得られない。その他種々なる俗的関係の顧慮もある。いっさいを忘れる種々なる享楽もある。なまけ者にはとうていその人間は造れない。そして人間は元来がなまけ者にできているのだ。
僕は最後に出獄して、まず世間を見て、その人間どもの頭ばかり大きく発達しているのに驚かされた。頭ばかり大きく発達しているのはなまけ者の特徴だ。彼等はどんな深刻なことでも考えると言う。しかしその考えや言葉には、その表に見える
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