がら、もう大ぶ糸も抜いたと思う頃に、ふと、電気にでも打たれたかのようにぞっと身慄いがして来た。そして僕はふと立ちあがりながら、そのトンボの羽根を持って、急いで窓の下へ行って、それをそとに放してやった。
 僕は再び自分の席に帰ってからも、しばらくの間は、自分が今何をしたのか分らなかった。その時の電気にでも打たれたような感じが何であったか、ということにすらも思い及ばなかった。僕はただ、急に沈みこんで、ぼんやりと何か考えているようだった。そしてそのぼんやりとしていたのがだんだんはっきりして来るにつれて、何でも糸を抜いている間に、「俺は捕えられているんだ」という考えがほんのちょっとした閃きのように自分の頭を通過したことを思い出した。それで何もかもすっかり分った。この閃きが僕にある電気を与えて、僕のからだを窓の下まで動かして、あのトンボを放してやらしたのだ。

 僕は、今世間で僕を想像しているように、今でもまだごく殺伐な人間であるかも知れない。少なくともまだ、僕のからだの中には、殺伐な野蛮人の血が多量に流れていよう。折を見ては、それがからだのどこかから、ほと走り出ようともしよう。僕は決してそれを否みはしない。殺伐な遊戯、殺伐な悪戯、殺伐な武術。その他いっさいの殺伐なことにかけては、子供の時から何よりも好きで、何人にも負を取らなかった僕は、そしてそれで鍛えあげて来た僕は、今でもその気が多分に残っていないとは決して言わない。
 子供の時には、誰でもやるように、トンボや、蝉や、蛙や、蛇や、猫や、犬をよく殺した。猫狩りや犬狩りをすらやった。そしてほかの子供等があるいは眼をそむけ、あるいは逃げ出してしまうほどの残忍をあえてして、得々としていた。虫や獣が可愛いいとか、可哀相だなぞと思うことはほとんどなかった。ただ獣で可愛いいのは馬だけだった。父の馬は、よく僕を乗せて、広い練兵場を縦横むじんに駈け廻ってくれた。が、小動物はすべてみな、見つけ次第になぶり殺すものぐらいに考えていた。
 それが今、獄中でもこのトンボの場合に、ただそれを自分のそばに飼って見ようと言うことにすら、それほどのショックを感じたのだ。動物に対する虐待とか残忍とか言うことは、大きくなってからは、理性の上には勿論感情の上にも多大のショックを感じた。しかしことに自分がそれをやっている際に、こんなに強く、こんなに激しく、こんなに深く感じたことはまだ一度もなかった。そしてその時に僕は、僕のからだの中に、ある新しい血が滔々として溢れ流れるのを感じた。
 その後僕は、いつもこのことを思い出すたびに、僕はその時のセンチメンタリズムを笑う。しかしまた翻って思う。僕のセンチメンタリズムこそは本当の人間の心ではあるまいか。そして僕は、この本当の人間の心を、囚われ人であったばかりに、自分のからだの中に本当に見ることができたのではあるまいか。
 手枷足枷[#「手枷足枷」は太字]
 やはりこの千葉でのことだ。
 ある日の夕方、三、四人の看守が何かガチャガチャ言わせながら靴音高くやって来るので、何事かと思ってそっと例の「のぞき穴」から見ていると、てんでに幾つもの手錠を持って、僕の向いの室の戸を開けた。その室には、その日の朝、しばらく明いていたあとへ新しい男がはいったのであった。
「いいから立て!」
 真先きにはいった看守が、お辞儀をしているその男に、大きな声であびせかけた。その男はおずおずしながら立ちあがった。まだ二十五、六の、色の白いごく無邪気らしい男だった。
「両手を前へ出せ!」
 再びその看守は怒鳴るように叫んだ。そしてその間にほかの看守等もどやどやと靴ばきのまま室の中へはいった。何をしているのかは見えない。ただ手錠をしきりにガチャガチャ言わしているのと、これじゃ小さいとか大きいとか看守等がお互いに話しているのとで、その男に手錠をはめているのだという察しだけはついた。
「今時分になって、何だってあんなことをするんだろう。」
 初めは僕は、その男に手錠をはめて、どこかへ連れ出すのかと思った。そんな時か、あるいはあばれて仕末に終えない時かのほかには、手錠をはめるのをまだ見たことがなかった。その男は来てからまだ一度もあばれたこともなければ、声一つ出したこともなかった。しかし看守等は、その男の腕にうまくはまる手錠をはめてしまうと、「さあ、よし、これで寝ろ」と言いすててさっさと帰ってしまった。僕にはどうしてもその意味が分らなかった。
 翌朝早く、また二、三人の看守がその男の室に来て、こんどはその手錠をはずして持って帰った。僕はますますその意味が分らなくなった。
 昼頃になって、雑役が仕事の麻束を持って来た時に、僕は看守のすきを窺って聞いた。
「何だい、あの向いの奴は?」
「うん、何でもないんだよ。今まで向うの雑房に
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