で見、僕の心で感じたあの二つの事実だけは、思い出すと同時にすぐにその当時の実感が湧いて来る。周囲の光景や場面の、またその時の自分の心持の記憶なぞよりも先きに、まずぶるぶると慄えて来る。
 「俺は捕えられているんだ[#「俺は捕えられているんだ」は太字]」
 千葉でのある日であった。運動場から帰って、しばらく休んでいると、突然一疋のトンボが窓からはいって来た。
 木の葉が一つ落ちて来ても、花びらが一つ飛んで来ても、すぐにそれを拾っていろんな連想に耽りながら、しばらくはそれをおもちゃにしているのだった。春なぞにはよく、桜の花びらが、どこからとも知れず飛んで来た。窓から見えるあたりには桜の木は一本もなかった。窓に沿うて並んでいる幾本かの青桐の若木と、堺が「雀の木」と呼んでいたいつも無数の雀が群がっては囀っている何かの木が一本向うに見えるほかには、草一本生えていなかった。されば、あの高い赤い煉瓦の塀のそとの、どこからか飛んで来たとしか思えないこの一片の桜の花は、たださえ感傷的になっている囚人の心に、どれほどのうるおいを注ぎこんだか知れない。
 何でも懐かしい。ことに世間のものは懐かしい。たぶん看守の官舎のだろうと思われる子供の泣声。小学校の生徒の道を歩きながらの合唱の声。春秋のお祭時の笛や太鼓の音。時とすると冬の夜の「鍋焼うどん」の呼び声。ことにはまた、生命のあるもの少しでも自分の生命と交感する何ものかを持っているものは、堪らなく懐かしい。空に舞う鳶、夕暮近く高く飛んで行く烏、窓のそとで呟く雀。
 しかるに今、その生物の一つが、室の中に飛びこんで来たのだ。僕はすぐに窓を閉めた。そして箒ではらったり、雑巾を投ったりして、室じゅうを散々に追い廻した末に、ようやくそれを捕えた。
 僕はこのトンボを飼って置くつもりだった。馴れるものか馴れないものか、僕はそれを問題にするほど、トンボに知恵があるかとは思っていなかった。が、できるものなら、何か食わせて、少しでもこの虫に親しんで見たいと思った。
 僕はトンボの羽根を本の間に挾んでおさえて置いて、自分の手元にある一番丈夫そうな片の、帯の糸を抜き始めた。その糸きれを長く結んで、トンボをゆわえて置くひもを作ろうと思ったのだ。
 が、そうして、厚い洋書の中にその羽根を挾まれて、しきりにもみ手をするように手足をもがいているトンボに、折々目をくばりな
前へ 次へ
全26ページ中14ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
大杉 栄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング