出せ。」
 不意にこう怒鳴られるように呼ばれて、差入弁当とその差入願書とを突き出されたものの、その突き出して来た太い皺くちゃな土色の指を気味悪く見つめたまま、しばらく僕はぼんやりしていた。
「早くしろ。」
 僕は再びその声に驚かされて、あわてて拇印をおして、願書をさし出しながらそうっとその男の顔をのぞいた。そして不意に、本能的に、顔をひっこめた。何という恐ろしい、気味の悪い、いやな顔だろう。
 初めての差入弁当だ。麹町の警察と警視庁とに一と晩ずつを明かして、二日半の間、一粒の飯も一滴の湯も咽喉を通さなかった今、初めて人間の食物らしい弁当にありついたのだ。それだのに、どうしても僕は、すぐに箸をとる気になれなかった。今の男の声と指と顔とが眼の前にちらつく。ことに、あの指で、と思うと、ようやく箸を持ち出してからも、はき気をすらも催した。
 被告人等はみな、他の押丁とは、よくふざけ合っていた。おつけの盛りかたが少ないとか、実の入れかたが少ないとか、いうような我がままでも言っていた。どうかすると、
「なんだ押丁のくせに」と食ってかかるものすらもあった。また、その押丁が看守になってからでも、みんなはやはり、前と同じように親しみ狎れ、または軽蔑していた。ある押丁あがりの看守のごときは、その男は今でもまだ看守をしているが、その姓が女郎の源氏名めいているところから、夜巡回に来て二階の梯子段をかたかた昇って行く時なぞに、「○○さんえ」と終りの方を長くのばした黄いろな声で呼ばれて、からかわれていた。
 しかしかの老押丁とは誰一人口をきくものもなかった。先きに言った僕との知友の強盗殺人君ですらも、この老押丁とは多くはただ睨み合ったまま黙っていた。看守も、他の押丁に対しては時々大きな声で叱ったりすることもあるが、この老押丁に対してだけはよほど憚っていた。用事以外には口もきかなかった。
 老押丁はこうしてみんなに憚かられ気味悪がられ恐れられながら、いつも傲然として、得々として自分の定められた仕事をしていた。そして自分のすることについて少しでも口を出すものがあれば、被告人でも上役のものでも誰彼の別なく、すぐに眼をむいて怒鳴りつけた。僕はこの男が一度でも笑い顔をしたのを見たことがなかった。

 やがて僕は、この男に、だんだん興味を持ち出して来た。気味の悪いのや、折々怒鳴りつけられて癪にさわるのは、
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