十年間いた。その後も十八の時までは毎年暑中休暇に帰省した。したがってもし故郷と言えばそこを指すのが一番適切らしい。
名古屋から初めて暑中休暇に新発田へ帰る途で、直江津から北越鉄道に乗換えて長岡を越えて三条あたりまで行った頃かと思う。ふと僕は、窓の向うに、東北の方に長く連らなっている岩越境の山脈を眼の前に見て、思わず快哉を叫びたいほどのあるインスピレーションに打たれた。その山脈は僕がかつて十年間見たそのままの姿なのだ。そしてそのあちこちには、僕がかつて遊んだ、幾つかの山々が手にとるように見えるのだ。
初めて僕は故郷というものの感じを味わった。
「故郷はインスピレーションなり」と言った蘇峰か誰かの言葉が、初めて身にしみて感じられたが、嬉しさのあまり、その時にはまだ、これが故郷の感じだという理知は、その感じの解剖は、本当にはできていなかった。蘇峰か誰かの言葉というのも、どうやら、その後のある時に思い出したもののようだ。
この故郷の感じは、その「ある時」になって、再び十分に味わった。そしてこれがいわゆる故郷の感じだということは、その「ある時」になって、初めて十分に知った。
初め半年ばかりいて、出てからまだ二月とは経たぬうちに、再び巣鴨へやられた時のことだ。巣鴨のあの鬼ヶ島の城門を、護送の看守が「開門!」と呼ばわって厚い鉄板ばかりの戸を開かせて、敷石の上をガラガラッと馬車を乗りこませた時だ。
僕はいつものように、馬車の中の前のはじに腰をかけて、金あみ越しにそとを眺めていた。門が開くと監獄の前の、広い前庭の景色が眼にはいった。その瞬間だ。僕は思わず腰をあげて、金あみに顔を寄せて、建物のすぐ前に並んでいる桧か青桐かの木を見つめた。そしてしばらく、と言っても数秒の間だろうが、あの一種の感に打たれてぼんやり腰を浮かしていた。それに気がつくと、すぐに僕は、かつて帰省の途に汽車の中で打たれたかのインスピレーションを思い出した。ちっとも違わない、同じ親しみと懐かしさとの、そして一種の崇高の念の加わった、インスピレーションだ。
僕は初めて、これが本当の故郷の感じなのだ、あの時のもやはりそうだったのだ、と本当に直覚した。
馬車から降りる。何一つ親しみと懐かしみとの感ぜられないものはない。会う看守ごとに、
「やあ、また来たな」と言われるのすらも、古い幼な友達か何かの、暖かい挨拶に聞
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