来る、大きな食卓のようなものだ。しかし私は劇を迷信してはいない。劇は、貧しいそして不安な生活が、其の思想に対する避難所を夢想の中に求める、と云う事を前提とするものである。若し吾々がもっと幸福でもっと自由であったら、劇の必要はない筈である。生活其者が吾々の光栄ある観物になる筈である。理想の幸福は吾々がそれに進むに従って益々遠ざかって行く。従って吾々は遂《つい》に達する事は出来ない。しかし人間の努力が芸術の範囲を益々狭めて生活の範囲を益々広めて行くと云う事は、若しくは芸術を閉ざされた世界即ち想像の世界としないで、生活其者の装飾とするようになると云う事は、敢て云える。幸福なそして自由な民衆には、もう劇などの必要がなくなって、お祭が必要になる。生活其者が其の立派な観物になる。民衆の為めに此の民衆祭を来させる準備をしなければならない」
 近代の最大の芸術家たるワグネルも、若い率直さで、敢て斯う云っている。
「若し吾々が生を持ったら、芸術なぞは要らなくなるのだ。芸術は丁度生の終るところで始まる。生が吾々に何んにも与えなくなった時に、吾々は芸術品によって『私は斯くの如く望む』と叫ぶのだ。本当に幸福な人がどうして芸術をやろうなどと云う考を持つ事が出来るのか私には分らない。……芸術は吾々の無力の告白である。……芸術は一つの渇想に過ぎない。……私の若さや健康を再び見る為めには、自然を娯しむ為めには、限りなく私を愛する女の為めには、美しい子供の為めには、私は私の全芸術を与える。さあ、私の全芸術を今此処へ出す。其の残りの物を私にくれ。」
 若し吾々が「此の残りの物」の僅かでも不仕合な人々に与える事が出来たら、生に少しの喜びでも与える事が出来たら、よしそれが芸術を犠牲にしてでも、吾々はそれを悔まない。
[#地から1字上げ]〔『早稲田文学』一九一七年十月号〕



底本:「日本プロレタリア文学評論集・1 前期プロレタリア文学評論集」新日本出版社
   1990(平成2)年10月30日初版
初出:「早稲田文学」
   1917(大正6)年10月号
入力:田中敬三
校正:土屋隆
2009年3月24日作成
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