旨はこれで尽きる。しかしこれは要するに理想である。信仰である。此の理想や信仰の実現される前に、「民衆によって」と云うよりも寧ろ「民衆の為めの」芸術が産まれなければなるまい。
今や芸術は利己主義と混乱とに悩まされている。少数の人々が芸術を其の特権としている。民衆は芸術から遠ざけられている。国民中の最も数の多い、そして最も活力のある部分が、芸術の中に何等の表現をも持っていない。斯くして思想は甚だしく貧弱となり、芸術の為めには重大な危険が迫っている。
芸術を或る一階級の独占的享楽として了うのは、此の芸術を奪われた階級の人々をして、やがて芸術を憎悪せしめ且つ破壊せしめる事に導くものである。
芸術を救う為めには、芸術に生命の門戸を開かなければならない。有らゆる人々を其処に容れなければならない。平民にも発言権を与えなければならない。
しかし生は死と結びつく事は出来ない。過去の芸術は既に四分の三以上死んだものである。過去の芸術は生には何んの役にも立たない。却って往々生を害《そこな》う恐れすらある。健全な生の必須条件は、生の新しくなるに従って、絶えず新しくなる芸術の出来る事である。
何者もただ、其の生れた場所と時代とにのみ、善いものである。善や美が絶対的存在であるとか、又は永遠的観念であるとかは信ずる事が出来る。しかし其の表現は人心の様式によって変わる。選ばれた人々にとっての美も、民衆にとっては醜であり、又選ばれた人々の欲望と同じ正当の権利を持っている民衆の欲望に応じない事もある。二十世紀の民衆に過去の世紀の貴族的社会の芸術や思想を強いる事は出来ない。
紳士閥の批評家は屡々《しばしば》云う。民衆は自分の階級よりも上の階級のものを主人公とした小説や脚本でなければ喜ばない。富裕な社会の描写は民衆をして自分自身の貧困の倦厭《けんえん》を忘れさせるものであると。なるほど、民衆が半睡眠状態にある間は或はそうであるかも知れない。しかし、其の人格の感情が目覚め其の市民としての品位を自覚するようになれば、民衆は斯くの如き従僕芸術に恥じなければならない。そして又、民衆を尊敬する人達の義務は、斯くの如き芸術から民衆を救い出す事にある。
民衆は紳士閥芸術の残り物を集めるよりも、もっと遥かに善いしなけれければならない事を持っている。現在の芸術のお客を増やす事を努めなくてもいい。吾々は現在の芸
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