詩人にも旧い道を去らせて、諸君をして紳士閥生活の狭い範囲から、吾々が今奮闘努力しつつある此の崇高な時代に相応しい、もっと、高貴な劇に移らせようとしている。なぜなら、独り大きな題目のみが人間の奥深い臓腑を揺り動かす事の出来るものである。今、現実其者が詩になっている。そして人々が人類の大利益たる主権と自由との為めに闘っている。此の厳粛な時期に際して、芸術も亦、鬼神を喚び起す其の劇の上に、更に大胆な飛躍を試みる事が出来るのだ。芸術は此の飛躍を試みる事が出来るばかりではない。此の実生活の劇の前に赤恥をかいて消えて失くなる事を望まないならば、是非ともそれを試みなければならないのだ。」
若し芸術が此の時代に応ずる事が出来なければ、芸術は、少なくとも生きた芸術は消滅しなければならない。又、此の新芸術を創る事の出来ない民衆は、其の新勃興階級たる運命をも放棄しなければならない。斯くして民衆芸術の問題は、民衆にとっても亦芸術にとっても、実に死ぬか生きるかの問題である。
民衆にも二種の民衆がある。其の一つは、貧窮から遁《のが》れ出て、直ちに紳士閥に心を惹《ひ》かれ、紳士閥に吸収されて了ったものである。もう一つは、此の仕合な兄弟に見棄てられて、其の貧困のどん底に蠢《うごめ》いているものである。紳士閥の政策は、此の後者を絶滅させ、前者を同化させる事にある。そして吾々自身の政策は、即ち吾々の芸術的であると共に社会的な理想は、此の二種の民衆を融合させて、民衆自体に其の階級的自覚を与える事にある。
若し民衆が第二の紳士閥となって、それと同じように其の享楽は粗雑であり、其の道徳は偽善であり、そして紳士閥と同じような愚鈍な無感覚なものになるのなら、吾々はもう民衆の事などを心配しない。声ばかり高くて空っぽな芸術や、屍骸のような人類を生き延びさす事は、吾々にはどうでもいい事なのだ。
しかし吾々は民衆の若い生命力を信ずるものである。又、人類の道徳的及び社会的の革命を信ずるものである。
此の民衆芸術に対する吾々の信仰、即ちパリの遊人等の惰弱なお上品に対して、集合的生活を表明し種族の更生を準備し促進する頑丈な男性的の芸術を建設せんとする、此の熱烈な信仰は、吾々の青年時代の最も純潔な且つ最も健全な力の一つであった。吾々は決して此の信仰を失わない。
六
ロメン・ロオランの民衆芸術論の要
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